暁の残月。四
「……見捨てる訳ではありません。桐花ちゃんは術士として素晴らしい力を持っているはず。それを磨いて欲しいのです」
ちゃんとした術士としての地力を得た上で吸精の力が扱えるなら、それは素晴らしい術士になれるはずなのです。しかし桐花ちゃんは、幼いうちから強すぎる能力に溺れてしまった。
「でも私にはこれしか……。ねえ、お姉ちゃん。助けてよ」
桐花ちゃんがそう言って床の上で膝を前に進めます。その時、私の側で声が発せられました。
「聞くに堪えん」
ヒスイでした。彼は耳をぴぴぴ、と振るいながらそう言ったのです。
彼はのそりと立ち上がると、黒い蝶を前にします。
「当代の有宣とやら」
「……ん?」
「許せ」
そう言って彼は蝶をむしゃりと口にしました。
「ちょっと、何してるの!」
術で作られた式なのでしょう。ヒスイの口に咥えられた揚羽の翅が、夜に溶けるように消えていきます。
ヒスイはぺろりと口元を舐めました。
「別に滅した訳ではないさ」
「それはそうかもしれないけど……」
理解はできます。本体たる式神が京の土御門家にいて、分体か術を遠方に飛ばす形式のものということは。電話だって通話するどちらにも電話機が必要なのです。そして諜報にも使うと考えた場合、本体を手元に置いた方が安全なのは当然のことでしょう。
もちろん、だからといっていきなり攻撃しても良いというものではありません。
「僕の悪妖たるを、無闇に土御門にまで見せる気はないのさ」
その言葉の意味が頭に浸透するのに少し時間がかかりました。
「ヒスイ!」
「茉莉、君の性は善に過ぎる。それは君の美徳であり、僕も好ましく思っているさ。だがそれではダメな時もある」
「ダメな時ですか……どんな」
ヒスイはニィと牙を見せて言います。
「応報さ」
応報、良き行いには良きことの、悪き行いには悪きことの結果がもたらされるという考えですが。
「私はヒスイが認められ、天后をいただけて嬉しいわ。それではダメなの?」
「ああ、ダメだ。それは茉莉が今まで受け取れなかった分の対価を受け取ったにすぎない」
「対価、それは応報ではないの?」
「そうだ。僕は君ではない。だが君と心が繋がった故に知っている。君がどれほど寂しく、苦しんでいたかを。その報いをこいつらは受けていないということさ」
ヒスイがお父さまや桐花ちゃんの方に振り返り、そちらに歩みます。
チャリ、と足音がしました。
……っ!
彼の足音を初めて聞きます。それは彼が爪を立てているということ。ヒスイの静かな怒りを感じます。
「なあ、茉莉の両親よ」
「何だろうか」
「少なくとも父であるあんたに反省と後悔があるのは事実だろうさ。だが結局、お前たちは何も茉莉に返していない」
「というと」
「高位式神の価値は計り知れんのは事実さ。だが扱えもしなかったものを下げ渡しているならだ。お前たちの腹は全く傷んでないだろう?」
「……む」
お父さまは唸ります。ヒスイは言葉を続けず、桐花ちゃんの正面に立ちました。ヒスイの瞳が緑色に強く輝き、床を淡く照らします。
「なあ、桐花よ」
「な、なによ」
「分かってるさ、君が反省などしていないことくらい」
「そ、そんなことないわ!」
「わかるさ。猫は反省などしないからな」
「……そっ、なっ」
あまりにも酷い言い草です。桐花ちゃんすら絶句しました。
「分かっている。今だって茉莉から霊力奪えないかと狙っているし、京に連行されても誰から奪えば効率が良いか考える女だよお前は」
そう言うと、ヒスイの身体がぬっと大きくなります。彼は人の姿に転じました。そうして言葉を続けます。
「だからな、お前に枷を嵌めよう」
人となったヒスイさんは桐花ちゃんの手首を掴みました。
桐花ちゃんの身体が萎んでいくように見えます。いえ、それは錯覚ではなく。桐花ちゃんの肉が萎み、珠のような肌が皺だらけになっていきます。
彼女はその手を見て叫びます。
「な……なんてことをするの!」
「今のお前の霊力を枯渇させ、吸精の能力を封じた」
あぁ……と桐花ちゃんは声にならない悲鳴をあげます。
「老化したように見えるのは完全なる力の枯渇によるものだ。霊力を取り戻せば姿は戻る」
「能力を封じられてどうやって霊力を取り戻せっていうのよ!」
「修行するのさ。簡単だろう?」
桐花ちゃんの顔が絶望に染まります。
今のやり取りで確かに桐花ちゃんが反省していなかったことが明らかではあります。そうなのですね……。
そしてヒスイは口をもごもごとさせたかと思うと、黒い霧のようなものを吐き出しました。
それはお父さまと倒れたままのお母さまを包みます。
お父さまは激しく咳き込みました。
「……何をした」
「僕は都に疫病を流行らせる悪妖だからな。病を与えた」
「病気だと……何の病だ」
「別に体調も崩さない、たいしたことのないものだよ。ただ、医学で治せるものじゃない。毎夜、悪夢に魘されるだけだ。孤独と絶望のな」
医学は平安の頃より遥かに進んでいますが、これはどちらかというと呪いに近いでしょう。
土御門を排したのは悪妖たるを見せないというより、彼の能力を見せないという意味もあったのかもしれません。倒れているお母さまが小さく呻き声をあげました。早速悪夢を見ているのでしょうか。
「なぜそんなことを。どうすればいい。金を払えというのか」
「応報といっただろう。茉莉の苦しみを味わうといい。あと解呪方法は簡単だ。桐花が元の姿を取り戻した時に自然と治るさ」
ヒスイは猫の姿に戻ります。そして嗤いました。
「それがいつになるかはお前たち次第だろうね」
そして私の膝の上にのぼると、太ももにごろにゃんと顔を擦り付けます。
もう……。私はヒスイの背中を撫でました。
「帰ろう」
「そうですね……。ありがとう、ヒスイ」
なーと鳴き声が返ります。
私は海栗を拾い上げるとヒスイのお腹の上に載せて立ち上がりました。
「それでは、私はこれで失礼いたします」
私は深く頭を下げて、呆然とするお父さまと桐花ちゃん、そして倒れたままのお母さまの前から辞去したのです。こうして、長い夜は終わりを告げたのでした。




