蒼月、沖天に坐す。十一
私はやっと気づきました。
いや、私はずっと気づいていなかったのです。といった方が正確かもしれません。
ずっと、隣にいてくれたのに。
私は海栗に向かって語りかけます。
「気づいてあげられなくて、ごめんなさいね」
「む、構わぬよ。霊力を奪われていたのじゃろ?」
すると海栗は黒い棘をふりふりとして返事をしてくるのです。
「うん」
「それにしてもそなたは、にぶちんであるとは思うがの。ほほ」
なぜ私は海栗に笑われるという稀有な経験をしているのでしょう。
しかし言い返しようもありません。確かに桐花ちゃんに霊力を奪われていたとしても、気づける要素はいくらでもあったというのに。
「ほれ、なんで気づいたのか言ってみよ」
話していて大丈夫かと騰蛇の方を見れば、彼は蛇の目を大きく見開いて唖然としています。そしてこの海栗が張ってくれているのでしょう。水の障壁が彼との間を隔てているのです。言葉を交わす余裕はありそうでした。
「倉橋の家は銀座の東、築地に近いですから、海の妖がいてもおかしくないと思っていたのです。だけど私が神田に越したのに、ずっと一緒にいてくれたじゃないですか」
神田にしろお茶の水にしろ、あそこは海沿いではありませんもの。海の妖がいるのは不自然ですよね。
「そうじゃな、他は?」
「あの、うちのヒスイ、猫ちゃんですけども。海栗を見かけると部屋の中で転がしはしてましたけど、排除はしていなかったので」
ヒスイは害をなすような妖や悪霊が寄ってくると、爪で裂いたり、追い払ったり、ときにはガブリと食いついたりしていました。そう考えると、彼は海栗だけをずっと私の部屋の中にいることを許していたのです。
「うむうむ。あの猫は良くわきまえておった」
そう、ヒスイは気づいていたのに私が気づけていないのだから、それはにぶちんと言われても仕方ありませんよね!
つまりこの海栗は強力で知性ある妖の類であり、それがずっと私に興味を持ってそばにいたということです。取り憑いていたのかもしれません。おそらく、私が成長して霊力も増大する頃までに私という人間を見極め、その本性をあらわしてくれるつもりだったのでしょう。しかし、私が桐花ちゃんに霊力を奪われたため、その機会は失われてしまった。
でも、彼女は私を見捨てず、ずっと共にあってくれたのです。
「あの……」
私がそれを確かめようと言葉を続けようとしましたが、轟音と共に床が揺れました。
じれたのか、騰蛇が水の障壁にその牙で喰らい付いていたのです。
障壁は粉々に砕け散りました。
「おい、お前!」
ごうと熱気が押し寄せてきます。その視線は私ではなくその横に転がる小さな海栗に。海栗は臆することもなく、自分よりはるかに巨大な大蛇に答えます。
「おや、丁の。せっかちな男は嫌われるぞよ?」
「お前……癸か!? いつからいやがった!」
「ずっとじゃよ。ずっとな。妾はこの子が生まれた頃から見ておった」
……待って。
随分親しそう、というか古い付き合いのようですね?
しかも対等な関係ですよね? その呼びあい方。
海栗は棘をわさわさと愉快げに揺らしながら私に言います。
「ほれ、そなた。妾の名を呼びや」
「本当ですか?」
「にぶちんでも、名がわかったであろ?」
騰蛇と同格であればそれは十二天将の一柱であるということ。
騰蛇は丁、すなわち隠にして火。癸とは隠にして水。それに対応する十二天将といえば……!
「急々如律令! 北西より来たりて従え、十二天将が一、癸の吉将! 媽祖天后!」
私は叫びます。
騰蛇も古代中国の伝説にある存在を安倍晴明が式神として祀ったものですが、媽祖、あるいは媽祖天后もまた中国は道教における神なのです。航海・漁業の守護女神。ああ、だから彼女は水の生き物ではなく海の生き物である海栗の姿だったのですね。
海栗はふるふると震え出しました。
「は、はは、ははは。嬉しや。久方ぶりに顕現できようぞ」
喜びの笑い。海栗の針が床へぽろぽろと落ちて広がっていきます。いや、違う。これは髪です。針だったものは射干玉色の絹糸がごとき黒髪へと転じているのです。
そしてあたかも床から生えてくるように、美しき顔があらわれ、さらには古風で艶やかな五衣唐衣裳とあらわれていきました。
いわゆる十二単を羽織った雅な女性がその場に顕現したのです。無論、その気配は人のそれとはかけ離れたものですが。
彼女は私を見て目を細めます。
「茉莉、妾が主よ。大儀であった」
「はい」
「妾のことを気さくに天后ちゃんと呼ぶことを許そう」




