蒼月、沖天に坐す。十
ヒスイが私の頬を舐めていったところから力が湧いてくるような気がします。
正面上空には騰蛇。それもただの蛇でも人型でもなく、本性である空飛ぶ闇の炎蛇の姿。その威圧感に人の身で抗うのはどれほど困難なことか。今だってふと膝を折りたくなってしまいそう。
「ふふ」
「何が可笑しい、マツリ」
巨大な蛇が、しゅうしゅうと息を漏らしながら問います。
「貴方とこうして対峙する勇気があることが」
半年前の私はお父さまにもお母さまにも誠二様にも桃花ちゃんにも騰蛇にも。こうして正面から向かい合うことができるとは考えていませんでした。
それが今や十二天将の本性と対峙している。
「勇気と蛮勇は違うぞ」
「確かめてみれば良いでしょう」
大蛇の顔が、まるで人のように笑みに歪みました。そして一部の蛇が牙から毒を吐き出すように。騰蛇はその口から灼熱の炎を私に向けて吐き出したのです。
「水剋火の理!」
かの化身が放つ最も高温の炎。私は直ちに水の障壁を私の前面に展開します。蒼く、透明な水の壁。無論、ただの水ではありません。私の霊力を込め、瀑布が如き水の力をこの一点に集中した、あらゆるものを穿ち、押し流せるはずの水の術。
ですが、それが押されるのです。水が沸き立ち、さらには水が浸食される。水が燃やされる。自然現象や物理法則にはありえない、超常の炎、それが騰蛇の権能。
私は別の符を懐から取り出しました。
「火生土、土生金、金生水!」
五行には相剋ではなく相生の関係というのがあります。火はものを燃やして土を生み、土はその中から金を生み、金はその表面に水を生むという関係。
私は周囲の炎を土に、それを金に、さらに水へと変換し、水の障壁の威力を増します。
術が、炎と均衡しました。そう、騰蛇の炎を押し留めたのです。その均衡は何秒続いたでしょうか。
私の全力は彼の蛇に匹敵しうることは示しました。しかし、水が大蛇の鱗に届くことはなく。
彼の放つ炎がおさまったとき、私の術もちょうど限界を迎えてしまったのです。
「はーっ、はーっ」
全力で走った後のように荒い息が漏れます。
「茉莉っ!」
悲鳴のようなヒスイの叫びが壊れた道場に響きます。
そう、これは大きな隙であったことでしょう。私は全力を使っていても、騰蛇はそうではないのですから。
お腹に激しい衝撃。
太くて硬いものが私のお腹を撫でるようにして弾き飛ばしたのです。
私は後方に吹き飛ばされ、床に叩きつけられるようにして何度も跳ねました。
「む、生きてるか」
ぐらぐらと目眩もして視界が暗転するなか、不思議そうな騰蛇の声が聞こえました。
「けほっ」
肺の中の息が全てもっていかれたように咽せます。今のは騰蛇の尾でしょう。その先端で私のお腹を突いたのです。
「ああ、防御の符を腹に仕込んでいたな? 周到なものだ」
「……当然の、備えです」
霊力の差以上に体格の差は圧倒的なのですから。身を護る術くらい用意しておくものです。
「なるほど、マツリよ。お前の腕前は、霊力は大したものだ」
「……どうも」
「だが、それでは俺には勝てん。そもそも高位の式神とは、その能力において術者を上回っているものだ」
下位の式神は、自分の雑事の手伝いをさせたりするためのものです。ですが高位の式神とは、自分にできぬことをさせるためのものです。
つまり開祖、安倍晴明にすら、こと炎の行使ということについては騰蛇が上回るということ。
もちろん、式神の強さは使役する者の能力によって変動しますから、今の騰蛇がそこまでとまでは思いませんが、彼の言葉は真実でしょう。
「ああ……」
私の倒れた床には海栗の妖やら小鬼たちが不安げに私を見ています。
向こうではヒスイが私を見つめています。その瞳は緑に染まっている。彼もあまり力が残っていないでしょうに、私が真に危機になったらその身を挺してでも助けてくれることでしょう。
ヒスイにおさえられている桐花ちゃんですら真剣な表情で此方を見ています。
「騰蛇……、知っていました。私個人の力では貴方に届かないと」
「そうだな、では」
降参するといい、そう続けるつもりだったのでしょう。
彼は私から霊力の供給を望んでいます。だから殺したい訳ではない。
しかし、私はその言葉を遮りました。
「でも術士、栗橋茉莉はあなたに勝つ」
騰蛇はふん、と鼻を鳴らしました。それだけで熱波がここまで届きます。
私は用意した最後の符を取り出しました。
「急々如律令……」
私は多くの人に助けられてこの場ににいる。
梅お婆さま、学校の友人たち、用務員さん、そしてヒスイ。
でも、私をたすけ、見守ってくれているものはまだいたのです。
私は高らかに、世界の果てまで届けと声を張ります。
「あの日、届けられなかった声を聞いて! あの日顕現させられなかったあなたの助力を希う! 式神招来!」
床の上、ころんと海栗が転がりました。
鈴のような声がころころと響きます。
「ようやく、妾を呼んだか」




