蒼月、沖天に坐す。七
騰蛇の牙が当たるたびにぽこぽこ生み出されたヒスイの分身が、どんどん増えて道場の床を埋め尽くしていきます。
騰蛇に襲いかかることのできるのは囲んでいる一部ですから、残った猫ちゃんたちは床の上でころんと転がったり、ううんと伸びをしたりと気ままな様子です。
戦っている最中なのですが、どこか気の抜ける光景です。
「早くそんなの倒しなさいよ!」
桐花ちゃんが叫びます。
ここで動かない、戦闘の方針を変えないのは桐花ちゃんの失策です。
式は命に縛られる。
桐花ちゃんは先ほど、騰蛇にヒスイを攻撃するよう命じました。彼はそれに縛られているのです。いかに騰蛇が最上位の力を有する式であるといえども、式神である以上それを曲げることはできない。
ヒスイへの攻撃が無意味と判断したら一旦引かせるなり、ヒスイを使役している私への攻撃に切り替えれば良かった。
そう、そうしないから私が自由に動けてしまう。私は符を指の間に挟みます。
「水剋火の理」
五行において水は火に勝つという力を込めた符。梅お婆さまに書いていただいた符に、私が霊力を込めていきます。符が淡い光を帯びました。
「それで仕舞いか? 簡単なものだな」
肩の上のヒスイがそう言って欠伸を一つ。
そう、これだけで勝ちが決まるのです。
梅お婆さまはここに来る前、私にいくつか助言をくださいました。
『あんたの妹、桐花は自分の力量以上の式神を使役している』
『はい』
『そういう相手と戦うならどうすればいいか分かっているかね?』
『……自滅を待ちます』
梅お婆さまはにやりと笑みを浮かべ、この符をくださいました。
『火行に対抗する結界の符だよ』
『よろしいのですか?』
『騰蛇は強力な式だよ。正面から戦って怪我されても馬鹿らしいさね』
つまり、この符を使って結界を張れば、桐花ちゃんはいずれ騰蛇に霊力を使い切ってしまう。私から霊力を吸収して補充すれば別ですが、それだって単純に距離をとってしまえばいい。桐花ちゃんはいつだって私に接触することで霊力を奪っていたのだから。
よって、これでヒスイの言うようにお仕舞いなのです。
……が。
「ごめんなさいね、ヒスイ」
「にゃ?」
私はお母さまのもとに歩んでいきました。
「六花様」
「ひっ」
お母さまは私が声をかけると、怯えたような視線を向けてきました。
私に、あるいは肩の上のヒスイに怯えているのかもしれません。よもや騰蛇とやり合えるほどの妖とは思っていなかったでしょうから。
「何よ、どうするつもり!」
お母さまは私に向けて術を使おうと霊力を練ります。
しかし、私にはわかります。彼女の力は、私にも桐花ちゃんにも及ばないと。もちろん平均的な術士よりはあるでしょう。しかし、倉橋の当主としてはきっともう何もかもが足りないのです。
「何もいたしません。ただ、この結末を見るなら……」
私は符を道場の床に置きました。符は、込められた力によって床の上に僅かに浮いています。
「おい、茉莉」
ヒスイが咎めますが、この符はこうすると決めていたのです。
お母さまは唾を飲みました。喉が動き、汗が落ちます。込められた霊力の強さを理解してくれたことでしょう。私の、霊力の量を。
「これは梅お婆さまの結界の符です。霊力はいま私が込めておきました」
「な、何のつもり!」
「六花様と旦那様……お母さまとお父さまの身を護るのに使ってください」
「なんで……」
「これから危険になりますから」
私はお父さまの方に視線をやります。お父さまは頷き、お母さまに符を握らせると、道場の隅に移動されました。
耳元でため息が落ちます。
「わざわざ面倒を背負いこむ気がわからんね」
「そうかしら、ヒスイだってそうだと思うわ」
「なんでさ」
「貴方、優しいもの。私の我儘に付き合ってくれるから」
再びため息が落ちました。
「騰蛇っ!」
桐花ちゃんが叫びます。
「遊んでるんじゃないわ!」
「……ならわかっているだろう」
猫に囲まれている騰蛇の声が、いっそ冷たく響いたように感じます。
桐花ちゃんが歯軋りをし、そして命じました。
「急々如律令! 我が式たる騰蛇に命じる! 権能を使いなさい!」
そう、騰蛇は蛇の化身として戦っていた。ですがそうではない。彼は炎の蛇の化身なのです。
なぜそれを今までしてなかったかといえば、使用する霊力の桁が跳ね上がるからです。今まで桐花ちゃんは権能を使わないようにさせていて、今その軛を外した。
これで長くは保たない。ですがそうしなければ、この状況は打開できない。
「御意」
人型であった騰蛇の身体が崩れます。
もちろん、滅したり消えるのではありません。全身が焔に転じているのです。
「水剋火の理」
私は自筆の符を取り出して霊力を込めました。
お婆さまのそれとは違って、安定はしませんが、とりあえず強力な結界を一時的に張るものです。
水の膜が私の前に現れ、その向こう。昏い焔が、爆風と共に暴力的に荒れ狂いました。




