張子の月に火は灯る。三
それからしばらく経ちました。ヒスイの魅了の力は抗い難く、日々、真っ黒なお腹に顔を埋めて……いえ、埋めさせられています。
ヒスイもしばらくは私の顔やら手を舐めたりしてくれるのですが、しばらくすると、ふにふにの肉球で顔を押し退けてくるのです。
もちろん遊んでいるだけではありません。
霊力の回復、それを制御するための修行。今まではお婆さまから術を教わることはなかったのですが、改めて師事をお願いしました。私の将来についても考えなくてはなりませんし、もちろん師範学校にだって通っています。ただ、私が教職に就く可能性はおそらくないので、いつかは辞める可能性もあるでしょう。お婆さまは『卒業まで通っときな』とおっしゃってくださいますが。
「じゃ、ヒスイさん。行きましょう」
「うむ」
そして日曜日、今日はお出かけです。
私が着ているのは紫紺の矢絣の着物に、海老茶の女袴。髪は桜色のリボンで纏めています。ヒスイさんはいつもの書生姿。そうそう、猫型の時はヒスイと呼んでいますが、人に化けている時は基本的にヒスイさんと呼ぶようにしました。私みたいな小娘が、歳上の男性を呼び捨てにしていると怪しいですからね。
「なんだい、早いね」
お婆さまがおっしゃいます。
今日の用事は夕方からなのですが、今はまだお昼ですからね。
「ちょっと銀座でも歩いてから行こうかと」
「逢引きか」
「ち、違いますよ!」
「ま、楽しんできな」
そう見送られたのでした。
さて、神田から銀座までは半里ほどの距離があります。市電に乗るのも結局駅まで歩くので割と面倒ですし、街並みを見ながら散策していくこととなりました。帰りは人力車にでも乗って帰ることにいたしましょう。
ヒスイの視線が私の頭から足元までを往復します。
「そういえばあれだな。その着物」
「なにかしら?」
「初めて会った祭りの夜に来ていた組み合わせだ」
言われてみれば確かにそうですね。
「あまり服を持っていなくて」
「いや、そういう意味で言ったのではない。良く似合っている」
「ふふ、ありがとうございます」
ちょっと慌てたように言うヒスイさんは可愛いですね。
思わず笑みが浮かんでしまいます。
「居候の学生の身では着道楽ともいきませんもの」
「それはその通りだがな。せっかく出かけるのだし、その布の髪飾り……リボンだったか。それくらい買ってはどうか?」
確かにリボンであれば、よほどのものでなければ、そう高いということもないでしょう。
「ヒスイさんが選んでくれますか?」
「僕が選ぶということは、一番飛びつきたくなるという意味だぞ」
「……う、それは困りますね」
猫さんですからね。
そんなことを話しながら歩いていれば時間などすぐに経ってしまうもの。街並みを東へ、南へと歩いていけば、日本橋を渡ってほどなく銀座に。道幅も広く、街並みも華やかになっていきます。
「江戸……東京は」
ヒスイさんが街並みを見ながら呟きます。
「はい?」
「随分と様変わりした」
このあたりは煉瓦造りを漆喰で覆って建てられた商店が立ち並んでいます。
またヒスイの思いの中には人力車や馬車ではなく、大八車や駕籠が行き交っているのでしょう。
「銀座は明治の頭の頃にひどい火事があったと聞きますが」
「うむ。江戸は何度も火事で焼けているが、ここはその火事の後に建物の造りから変えたからな」
つまり、そこで洋風建築になったということですね。
千年を生きているとは。交流のある人は死に、景色も何もかもが変わっていくというのはどういう気分なのでしょうか。
「慣れませんか」
「変わるものがある一方で変わらないものもある。変化とは良いものも悪いものもあるさ。逆にこのあたりは道が広くて真っ直ぐに整理されたからな。京を思い出しもする」
なるほど。
そう思っていると、ヒスイさんは私の手をとりました。
「な、なにを?」
「心配しなくても大丈夫だ。今の僕は滅しようなどとは考えていないよ」
そう思ってくれているなら幸いというものです。
「それで、銀座にはなにをしに来たんだ?」
「ヒスイさんに美味しいものでも食べて貰おうかと」
「ほう」
ヒスイさんの目が輝いた気がしました。
椿通りまで南下して、一軒の店の前に。看板には資生堂薬局とあります。
「薬屋ではないか!」
「薬屋に美味しいものがあるのです」
「騙していないか?」
足の止まったヒスイさんを引っ張りながら中へ。ここはそもそも洋風の薬局を志向しているというお店です。明るく、開放的でヒスイさんが過去に見てきた薬屋とは趣が全く異なるでしょう。
「どうですか?」
「確かに知っている薬屋とは違うようだ。……それに甘い香りがする」
なるほど、猫の嗅覚には感じられるようですね。私は注文をしました。
「アイスクリームソーダを二つ」
「あいすくりむだそうだ?」
私が注文する横で、耳慣れぬ言葉にヒスイさんは首を傾げていたのでした。




