臥待月の衛士。九
師範学校の前で桐花ちゃんに触れられて、意識が暗転しました。
ああ。
私の力は桐花ちゃんが……。
そう思いながら意識は消えて倒れたのですが、それでも覚えていることがあります。
力強くしなやかな背中を。私を背負ってくれた彼のことを。そして何より、彼から流れてくる温かい力を。
それは闇夜に煌めく天の川のように感じられました。その煌めきを掬いとれば、そこにはヒスイの記憶が、想いが溢れてきたのです。
『汝が名は臥待月の衛士とする』
笑みを浮かべて語りかける美丈夫。
『京をうぬが好きにはさせぬよ』
鋭い視線を向ける若き陰陽師。そして彼に従う無数の式神。
『これは貴方がお食べ』
そう言ってなけなしの食事を与える、襤褸を纏う少女。
『貴方、うちの子になる?』
かがみ込んで手を差し伸べる私。
それら全ては細切れの断片のようなものであったけど、ヒスイがそれらを大切に思っていることは分かります。だってそれらは優しく光っていて温かいものであったから。
お腹の辺りでもぞり、と何かが動いたのに気づいて、瞳を開きます。
真っ暗です。お婆さまの家の、私の部屋の布団に横たわっているようでした。
ヒスイが共寝してくれていたのでしょう。私に霊力を与えるために。
ああ、彼はここ少しの間にどれだけ私のために力を使ってくれているのでしょう。申し訳なさと、それを遥かに上回る感謝の気持ちで胸がいっぱいになります。
私は彼の姿を探します。畳の上、黒い毛並みが僅かに光輝いて輪郭が見えました。僅かに開かれた窓からの月光に照らされているのです。
月は下弦の月より僅かに丸く。ああ、これが……。
「臥待の月、なのね」
ヒスイがこちらに振り返ったのが分かります。
そうして二言、三言と言葉を交わしていると、彼は窓の枠に飛び乗りました。
「行ってしまうの?」
そう問えば、ヒスイと私は敵同士であると言います。違う、断じて違うのです。私は否定しました。
私は安倍晴明の子孫であり、ヒスイは蘆屋道満の式であるのは事実でしょう。でも、それは私たちが敵であることを意味しません。
だってヒスイは私との出会いも大切に思ってくれているのだもの。
しかし彼はこう続けます。
「僕と君が親しくすることを、君の両親は、倉橋の一族や土御門は、そして何より晴明に仕えた式や霊たちは認めまい。そういうことさ」
私は布団を剥いで立ち上がります。ふらついたりはしない。うん、体調は問題なさそう。
「ヒスイ」
「なんだい? 茉莉」
私は強く意志を込めて宣言します。
「そんなことは、どうだって、いいの」
「……どうだっていいって」
「家族だろうと、あらゆる術者や妖が敵に回ろうと、それはヒスイを諦める理由にはならないわ」
私を見つめる金の瞳が少し逸らされました。何か言葉を考えるように、あるいは気おされるように。
「滅するのを待つだけだった猫に、そこまでの価値はないよ」
「今のヒスイはもう死のうとなんて思ってはないわ。わかるもの」
「……冷静に考えたまえよ。僕と君はまだ会ってからまだ月が一巡もしちゃいないんだ。それなのに今までの人生を擲つような価値があるものかい?」
私はゆっくりと彼に近づきます。そしてかがみ込んで、視線の高さを合わせました。
「貴方がこの半月、幸せを感じてくれたことを知っているわ。でしょう?」
「……まあ、楽しくはあったよ」
「そして逆に、貴方も私をわかるはずでしょう? 私の人生は貴方と比べればほんの瞬きのようかもしれないけど、それでもこの十五年間より、この半月の方がずっと満ち足りていたことを」
思いは繋がっていたのですから。ヒスイから私に、だけではない。私からヒスイに流れていった思いもあるはずです。
ヒスイはぴぴぴ、と耳を動かしました。
「互いの気持ちがバレてるのはやりづらいな」
やはり。
ふふ、と笑みが浮かびます。
「であるなら、私の覚悟もわかるでしょう?」
「まあ、ね」
「茉莉花の花を手折ろうとも、その名を捨てようとも、決して香りは失われないわ」
「せっかく戻れるのに、野に咲くと?」
ヒスイが私の将来を心配してくれているのはわかります。覚悟といってもまだ私は学生ですし、それが一時の想いに身を任せて良いのかと。
野に咲く、つまり倉橋の術士ではなく、在野の術士になって良いのかという意味でしょう。
もちろん違います。
「茉莉は臥待月の夜に咲く。そう決めました」
そう宣言すれば、ヒスイはしばらく固まって動きませんでした。そして窓枠の上でこてんと倒れると、むくむくとその身を人型に転じます。
「茉莉」
一筋の白が流れる黒い髪。夜の闇に浮かび上がる整った顔立ち。書生服から大きな手が伸びてきて、私の頬にそっと添えられました。
「はい」
「そんなことを言われたら、もう離してやれぬぞ」
私の背に、両の手が回されました。力強く、苦しいくらいに抱きしめられます。
私も彼の背中に両手を回すことで応えとします。彼の肩越しに、臥待月が私たちを見下ろしているのが見えたのでした。




