臥待月の衛士。八
…………目を覚ますと周囲は真っ暗であった。静けさに包まれてもいる。
ただ、背中側に茉莉の寝息のみがゆっくりと響く。
眠っていたようだ。それも随分と深く、長く。
猫という生き物は一日の大半を寝て過ごす。寝る子、がその語源とも言われるほどに。
ただ、それは肉食の獣に多く見られる習性でもある。眠りを浅く、代わりに長くとることで、敵からの襲撃に備えつつ、余分な体力を使わないという野生の知恵である。
「んなーぅ」
欠伸を一つ。
僕は妖であって純粋な猫ではないから、そこまで睡眠時間を必要とせず、その気になれば寝ずに活動もできる。でも特に用がなければ寝て過ごしがちではあるのだ。
つまり、長く寝たこと自体はそう不思議ではない。ただ、ここまで深く寝たのはいつ以来であったか、ということだ。
なぜそう判断できるかというと、飯の匂いがするからである。
猫の瞳は夜目が効く。匂いのもとに視線をやれば、新聞紙の下に茶碗やら食器が見えた。梅婆様が僕と茉莉の飯を作り、あまりよく寝ているので、起こすことなく飯をこの部屋に置いていったのだろう。
それに気づきもしないで寝こけていたとは、猫としてあるまじき眠りの深さであった。
「くわぅ」
僕は再び欠伸をすると、右手で顔を撫でた。
まあ、理由は分かっている。僕の力が茉莉に流れているからだ。彼女が妹にごっそり霊力を持っていかれたので、僕の力がその補填に使われている。
僕は茉莉を起こさぬよう、そっと立ち上がった。
真っ暗とは言ったが、完全なる闇というわけでもない。光が部屋の一部を照らしている。月光であった。時刻は深夜であろう、昇り始めて家々の屋根を越えた下弦の月。その光が部屋に差し込んでいるのだった。
ああ、寝る前に窓を少し開けていたけども、どうやら閉め忘れていたらしい。
季節はもう夏だ。開けた窓からは涼やかな風も入ってきてちょうど良い。除虫菊、蚊取り線香の残り香がするのは、婆様がつけておいてくれたのだろう。
僕は窓際へと向かって、月を見上げる。
下弦の月、つまり半月よりは少しばかり丸っこい。十九か二十日の月。ああ、これは……。
「臥待の月、なのね」
背後から声が放たれた。穏やかで、透明な声。
振り返れば、横になった茉莉が寝返りを打ってこちらを見ていた。
いや、直前まで僕が見上げていた月を見ていた。
彼女はくすり、と笑う。
「臥待の月を、言葉通りこうして横になって、見上げているのは初めてだわ」
西の空に陽が落ちると共に東から昇るのが満月。翌日の十六夜は日没から半刻ほど遅れて昇る。以降もさらに半刻ずつ遅れていくので、立って待つから立待月、座って待つから居待月、寝て待つから臥待月だ。
ふん、と僕は鼻を鳴らす。
人間は夜を遠ざけすぎなのだ。火で、電気で夜の闇をどんどんと追いやっていく。だから月を見上げる者も見上げる機会も減っているだけのこと。
「綺麗ね……」
どうだろうか。美しいといえばやはり十五夜、満月かその前後あたりが明るくて美しいと感じるものではないだろうか。
「綺麗かね」
「あの人もそう言っていたのでしょう?」
ぐっ、と息が詰まる。
『今日の臥待月は麗しい』
『にゃ』
道満様が両手を広げて天を仰いでいた夜が思い起こされる。僕が産まれてちょうど一月が経った時だ。
彼の方はくるりと身を返して僕を掲げ、臥待の月を瞳におさめさせて言ったのだ。
『汝が名は臥待月の衛士とする』
名を得るとは、力を、命を得るということ。僕はその時初めて人の姿に変化した。まだ幼き、稚児の姿ではあったが。
僕は道満様の肩の上に乗った。
『フシマチの、えじ』
『そうだ。おお、臥待月よ。愛き姿よな』
ああ、あの人は確かにそう言っていた。
まあ、実のところ結局はどの月も愛でていたというだけの話である気もするが。でもこれは確かに僕の原初の思い出だ。
「……見たのか」
「夢を見たの。ヒスイ……フシマチとあの人のことを」
そう言いながら彼女は身を起こして、布団に座った。
なるほど、僕は彼女に力を流しながら添い寝をしていた。僕の記憶も、いくらかそちらへと流れて夢という形であらわれたのだろう。
「ヒスイでいい。君は僕をそう名付けたのだから」
僕は窓の枠に飛び乗った。背中に月光を浴びて茉莉を見下ろす。
「……行ってしまうの?」
「夢で見たならわかるだろう。僕と君は敵同士だ」
「違う!」
茉莉はそう強く言って、首をゆっくりと横に振る。
「違うわ。敵同士だったのは晴明様と道満様。わたしとあなたではない」
それは事実であろう。だが……。
「君は自身の霊力について理解しただろう」
そう問えば、彼女はゆっくりと噛みしめるようにして言う。
「桐花ちゃんが、妹が、私の霊力を奪っていたのね」
「そうだ。それを訴えれば立場を逆転できよう。君が倉橋を継ぐことも、晴明十二天将を従えることも茉莉なら容易かろう」
騰蛇は、桐花の中にある茉莉の霊力を甘露と呼んだ。つまり、直接与えれば従うという意味でもある。
「そうかもしれないわ。それで?」
「君は倉橋に戻れるということだよ。安倍晴明の末裔としてね」
茉莉は黙して此方を見つめている。
「僕と君が親しくすることを、君の両親は、倉橋の一族や土御門は、そして何より清明に仕えた式や霊たちは認めまい。そういうことさ」




