臥待月の衛士。七
僕が二階に茉莉を背負って上がれば、その後ろに梅婆様のついてくる軽い足音が続く。
部屋に入り彼女を背中から下ろしてやって、壁に背を預けさせ、布団を敷いた。
婆様は言う。
「ありがとうよ。茉莉を着替えさせるさね」
「ああ」
男は出て行けということである。まあ、僕が部屋の中にいる時も彼女は気にせず着替えているので今更な気もする。一応、視線はやらないようにしていたけども。
ともあれ僕は茉莉を布団の上に移動させてから窓を少し開けると、猫の姿に戻って隙間から抜け出した。
一階の庇となっている屋根の上に座って、昼飯の炊事の煙が上がる街並みを眺めていれば、背後からは衣擦れの音が響く。
「恨みがあるのかい」
「……いや」
主語がないが、先ほど僕が敵と言った安倍晴明についてだろう。
恨みは怨みに繋がる。即ち怨念だ。騰蛇は悪妖という表現をしていたが、実際、妖は怨念に囚われれば容易くその身を悪に堕とす。
「晴明の頃から何年経った?」
「死んでから九百年とちょっとだねえ。何年か前に京都で没後九百年の儀式をやったからね」
九百年。僕はゆっくりと目を瞑った。ずいぶんと長く生きたものだ。
「そんなに長く恨んじゃいられないよ」
「……それもそうかね」
悪妖はともかくとしても、単純に恨みや敵意を持ち続けるというのは難しいものだ。相手がもう死んでいるとなれば特に。末代まで祟るなんていう霊もいるが、あれはあれでそれだけの熱意は凄いと思う。その熱意の使い方はいかんともし難いが。
しばらく、衣擦れの音だけが聞こえてそれも止んだ。
梅婆様は窓をもうちょっと開けて窓枠に背を預けて尋ねる。
「やっぱりあんたは晴明様と直接の面識があるんだね」
僕はくわぁと欠伸をした。
ああ、そうか。今の僕の言動や、先ほどの騰蛇との話を聞いていればそれが明らかかと思っていたので特に隠さなかったが、晴明本人ではなく弟子や子孫との確執である可能性もあったか。
まあ、そこまで僕の年齢や正体を積極的に隠したいという訳でもない。だから別に構いはしないのだけれども、そうだな……。
「僕の過去について話しても構わないんだけどね」
「ふむ?」
「でも婆様より先に茉莉に話すべきだろう」
「ああ、それもそうさね。それがいい」
僕を拾ったのは茉莉なのだから。
梅婆様は窓際から離れる。僕も部屋の中に戻った。茉莉は学校に来ていった服ではなく、白地に藍染の浴衣を着て眠っている。顔の辺りに近づけば、すやすやと寝息を立てていた。
「じゃああたしは下にいる。後で飯は持ってくるからついていてやっておくれ」
「ああ」
梅婆様は廊下に出て、戸を閉じようと振り返った時に言った。
「あんた、さっき人の時に猫やいと呼ぶのはどうかと言ってたけどね」
「うん?」
「千年生きてる猫のくせにあたしを婆様って呼ぶのもどうなんだい?」
僕は笑って答えた。
「梅お嬢さんって呼ぼうか?」
「……結構だよ!」
梅婆様はどすどすと音を立てて下に降りていった。
くくっと僕は喉を鳴らす。
人間の年長者を僕が爺様婆様と呼んでるのはもちろん理由がある。若者の姿で年長者を下に見る発言をしていたら目立つ、というのが当然の理由だ。僕が妖であることを隠すためである。
それともう一つ、僕の中にはある種、人への敬意というものがあるのだ。
何といっても、僕を創り出したのは人なのだから。
『ぬ、産まれたな。どうだ、俺が分かるか』
『みぃ』
千年近く前、僕の始まりの記憶がふと思い起こされた。
もう、記憶の底に沈んで、ずいぶん浮上してこなかったというのに。
『俺の名は蘆屋道満、天才陰陽師にして、うぬが主よ』
『み』
男が産まれたばかりの僕を持ち上げた夜が脳裏に浮かぶ。
『うぬに与えた力を以ってすれば、今度こそ晴明の鼻をあかすことができようぞ』
そう言って笑っていた。
『だがまあ、うぬはまだ小さすぎる。まずは飯を食うのだ。誰ぞあるか!』
僕は道満様から彼の式神に手渡され、乳を飲んだのだった。
妖には自然現象から生まれるものもいる、雷なら雷獣、川なら河童や大蛇。長くあるモノが妖力を持つこともある。猫又がそうだし、九十九神もそうだ。
だが僕は初めから天才陰陽師、道満様の式神として創り出された妖である。
蘆屋道満様のいた時代には他にも幾人か天才・鬼才と呼ばれた陰陽師がいたけれども、その中でも安倍晴明という男を好敵手としていた。張り合っていたというか、術比べで負けたのを逆恨みしていたというか……。
「うにゃ」
そんな僕が安倍晴明の直系子孫に拾われていたとはな。
僕は寝床である籐籠に向かおうとしてやめた。茉莉の横に、また転がっていた海栗の霊を部屋の隅に転がすと、彼女の肩のあたりで丸くなった。
茉莉が心配であったのもあるだろう。だが、なんとなく、体温を感じていたい気分だったのだ。
……どうしたものか。そう思いつつ僕は茉莉の横で眠りに落ちた。




