臥待月の衛士。六
茉莉が倒れ、僕は思わず彼女に駆け寄った。騰蛇と睨み合っていたことも忘れて。
それは隙だらけの姿であっただろう。だが、幸いにも奴からの攻撃はなかった。
「茉莉!」
僕は彼女を抱きかかえる。……息はある。これも幸い、といって良いのだろうか。霊力を急に大量に吸われて気を失っただけであるようだ。精力・生命力まで吸われた様子はない。しばらく寝ていれば回復しよう。
「ははっ、甘露、甘露」
一方の騰蛇は歓喜の声を上げる。茉莉の霊力を妹の桐花が吸い、それが桐花に使役されている騰蛇へと流れているのだろう。
彼の身体の表面では焔が走り、髪は紅蓮に光り輝いた。
霊力を吸い上げた桐花であるが、こちらも意識を失っていた。こちらは肉体疲労か使い魔を長時間使役した疲労かによるものだ。
「どっこいせっと」
騰蛇は彼女を横抱きにかかえると、宙に浮かびあがった。
「じゃあ、ウチの姫様はおねむなんで帰る。藤田五郎とやら、楽しかったぜ」
「む……」
あいつが人間の名前を覚えるなんて、この用務員は大した男であるようだ。
「フシマチ、お姉ちゃんによろしくな」
「とっとと失せろ」
「ははははは」
機嫌良さそうに呵呵大笑しながら、宙を泳ぐように進み、そして陽炎の中に消えていった。
僕はため息を落とす。
まあ、霊力を補充した騰蛇が襲いかかってこなかっただけ助かった。もちろん、あいつが僕たちを害することはない。今の主人である桐花が意識を失っていて、その命令がないためだ。
「おい、若いの」
藤田と呼ばれていた老人が声をかけてくる。
「僕はあんたよりずっと歳上と思うが、なんだね、御老人」
「あのトウダって奴は何者だ?」
「答える義理はないが、茉莉を助けてくれたようだし教えよう。安倍晴明を知っているか?」
彼はきょとんと面食らったような表情を見せる。
「名前くらいはな」
「晴明は無数の使い魔を使役したが、あれはその中でも最上位のひとつだよ」
「十二なんとかって言ってたか」
「それだ、十二天将が一、騰蛇。空飛ぶ炎の蛇があれの本性だ」
「おいおい、平安の頃から生きてるってことか?」
晴明の死後、封印されていた時間の方が長いはずなので、厳密にはずっと存在しているというわけでもない。だが、そのあたりの説明は面倒だ。僕は頷くにとどめた。
ちぇ、と老人は残念そうに舌打ちを一つ。
「なんだよ、頼光にゃなり損ねたな」
ははは、と僕は笑った。
いや、本当にこの老人は肝が据わっている。もはや死を怖れる年齢ではないのかもしれない。だが、これはもう死線にその人生を置き続けた者だろう。
「その感想が出るのは大物だよ、御老人」
ライコー、つまり源頼光。平安時代に鵺という大妖怪を仕留めた侍のことだ。
僕はぐでん、と意識のない茉莉を背中に背負い、立ち上がった。
「お前さんも人じゃあないのか?」
「そうだね。斬らないでくれよ」
老人は首を横に振った。
「剣もねえし、そもそもうちの生徒の味方なんだろ?」
「まあ、多分」
「じゃあいいよ。それにお前さんも強そうだ」
「そうかな」
「そうさ」
僕は肩を竦め、茉莉を担ぐ位置を調整した。彼女の息が首筋でこそばゆい。
「茉莉を護ってくれたこと、感謝する」
「よせやい、ただの仕事だ」
用務員だか警備員だか知らないが、騰蛇の前に立ち塞がるのは給与の範疇ではあるまい、思わず笑みが溢れた。
「……まあ、お礼はいずれ」
「おう、嬢ちゃんをよろしくな」
僕は茉莉を背負ってその場を後にした。最近流行りの人力車とやらを拾おうかとも思ったが、彼らは威勢よく車を引っ張って走るのでどうも不安である。結局、昼の神田の町をてくてくと家まで担いでいった。
「ただいま」
「おかえり、猫やい、ご苦労様だったね」
梅婆様は、僕と同時に茉莉のもとに危機が迫っていることを知覚していた。僕に師範学校まで行くよう急かしていたというのに、今は落ち着いた様子を見せている。
「この姿で猫と言われてもな。桐花とかいう妹と騰蛇だった」
「そうさね」
「用務員の爺様が護ってくれていたようだ」
「ああ」
既に知っている様子であった。まあ、遠見の術か、式を飛ばしていたか。何らかの方法で覗いていたのだろう。
「なあ、婆様」
「なにさね」
問おうとして唇が僅かに震えた。
僕の背中の少女が、それは妖の力からすれば羽根のように軽いのだけど、急にその重みを増したように感じる。
「彼女は安倍晴明の直系なのか?」
彼女は以前、術を使うときに清明桔梗の印を使っていたが、それは驚くに当たらない。今の陰陽師なんて、ほとんどが安倍晴明の術の系譜なのだ。
だが、騰蛇を使役するというのはそれとは全く意味が異なっている。十二天将が流出するなど考えられないためだ。
はたして、梅婆様は頷いた。
「そうだよ。清明の男子直系は途絶えたんで女系ではあるがね。京の土御門と、その庶流である東京の倉橋は直系で、あたしも茉莉も倉橋の出身さね」
「そうか……」
僕は婆様の横をすれ違う。彼女は問うた。
「猫やい、あんたは安倍晴明と縁があるのか?」
僕は二階への階段に足をかけ、振り返って言った。
「敵だ」




