臥待月の衛士。五
用務員さんの手にした棒が、騰蛇の喉を真っ直ぐに貫きました。
撃剣や剣術の試合であれば文句なしの一本。用務員さんの手にしているのが木の棒であるといえども、ああも正確に喉を撃てば、少なくとも相手を行動不能にできますし、命を奪う可能性すら高いでしょう。
……相手が人間であれば。
騰蛇は一瞬唖然とした表情を浮かべていましたが、そのまま腕を振るいます。
「急急如……」
私は防御のための術を唱えようとし、途中でやめました。
空気が切り裂かれましたがそこに用務員さんはもういません。彼は会心の一撃を加えた後も決して慢心することなく残心をとり、すでに攻撃範囲から逃れていたためです。
「なるほどな」
お爺さんは平坦な声でそう言いながら、手にした棒に視線をやると、それを投げ捨てました。
棒はその長さを一尺ばかり減じていて、先端が燃えていました。それは騰蛇の身体に攻撃を打ち込んだ分であり、彼の身体に触れた瞬間にその先端が燃やし尽くされていたのです。
撃ち込まれた衝撃は残ったのでしょう。騰蛇は咳払いを幾度かして言いました。
「惜しいな、お前の手にしていたのが木ではなく刀であれば届いたやもしれん」
彼の放つ熱は金属をも溶かす高熱ですし、火剋金、火は金に強いという五行の法から考えれば、それですら『かもしれない』程度ではあるのです。しかしあの騰蛇がここまで人を評するのは初めて聞きました。
「……馬鹿野郎、学校に国重吊るして通えるかよ」
用務員さんは笑みを浮かべながらそう吐き捨てます。
彼が新撰組の剣士であったというのなら、ご自宅には名刀もお持ちでしょう。実際、彼の腕なら真に貫けたのかもしれません。そう思わせるだけの腕前と凄みがありました。
ですが当然ながら、帯刀して学校に通えるはずもありません。用務員さんは拳を構えます。
「逃げな」
「よ、用務員さんこそ。もう十分です」
「お嬢ちゃんは頑固でいけねえ」
そんなことを言われても、本来あれは私の相手です。そして妖に対峙するのは術士の定め。そう反論をしようとしたところで、声がかかりました。
「そこの老人の言う通りだ」
「ヒスイ!」
声の主はヒスイでした。私の影からぬっと黒猫があらわれたかと思うと、それは書生さんの姿に転じました。影を渡る、そんな力を有していたのでしょうか?
「味方か?」
用務員さんが尋ね、私は頷きます。ヒスイは不満げに声を放ちました。
「そもそもなぜ危機であるなら僕を呼ばない」
うっ、気づくのも当然ですか。須田町からお茶の水なら歩いてもすぐです。この距離で騰蛇が戦っていれば、少なくともお婆さまが気づかない筈はない。
ヒスイは私にそう言いましたが、答えを求めているわけではないようです。
彼の瞳は拳を構えたままの用務員さん、意識を取り戻していないのか呆然とした桐花ちゃん、そして騰蛇へと向かいます。
そして、彼の瞳が大きく見開かれました。ヒスイの黒髪がぶわりと持ち上がります。それは猫が威嚇に毛を逆立てるのを思い起こさせました。
「お前、騰蛇か……!」
「ああん、誰だお前?」
騰蛇は首を傾げます。そしてはるか遠くを、過去を思う目つきをして、得心したようです。
「お前、フシマチか?」
「フシマチ?」
ヒスイは古い妖のようですし、当然ながら本来の名がある筈です。フシマチというのはその名でしょうか。
騰蛇は天を仰いで笑い出しました。
「ははははは! こいつは傑作だ! まだ生きていたとはな!」
「僕は最悪の気分だがな」
ヒスイは冷たい視線を騰蛇に、そして桐花ちゃんと私にも向けてきました。
ぞくり、と背筋に震えが走ります。なぜ、私もそう見つめるの?
大笑していた騰蛇は、突然それを止めると、真剣な表情に変えて私に尋ねます。
「おい、茉莉。そいつを使役しているのか」
「使役……はしていないけど、一緒に暮らしているわ」
「そいつ、フシマチは悪妖だ。それも使役もやめるべきだ」
私は否定の声を上げようとしました。しかし、ヒスイは騰蛇のその言葉を受け入れるように沈黙しています。
なぜ?
困惑していると横合いから声がかかります。
「ああ、お姉ちゃん」
桐花ちゃんが意識を取り戻したようです。
桐花ちゃんはふらりと前に出ました。
「茉莉に近づくな!」
ヒスイが叫びます。ああ、ヒスイは私を思ってくれている。安堵が広がります。
ただ、ヒスイは騰蛇を警戒して動けません。
桐花ちゃんはふらり、ふらりと私の方へ。
「後がない。やっぱりお姉ちゃんじゃなきゃだめなの……」
桐花ちゃんはそう呟きながら、足元をもつれさせ、そしてついに体勢を崩し、その身をこちらに投げ出すように傾けました。
「桐花ちゃん!」
私は思わず彼女の身を抱き止めました。桐花ちゃんは安堵したような、柔らかな笑みを浮かべ、そしてぞっとするような冷たい手で私の手を握ります。
「ありがとう、お姉ちゃん」
その声と共に、私の中から何かがごっそりと抜け落ち……視界が暗転したのでした。




