臥待月の衛士。三
「桐花ちゃん?」
声を掛けますが、返事がありません。
私の脳内で警鐘が鳴ります。
違和感はいくつもあります。桐花ちゃんが私に会うために師範学校に来たことは今まで一度もありませんし、本来なら私が帰る時間ですらない。声がけにも反応せず、意識が朦朧としている。彼女が巫女装束を着ている、それも煤汚れたものを。そしてなにより彼女から放たれる火と隠の気、昨夜の神社での火事。
私はぱん、と柏手を一つ。音と共に霊力を広げ、強く命じます。
「急急如律令! 火行にして隠、即ち丁! 南東を守護する十二天将たる騰蛇よ! 疾くその身を顕せ!」
びくり、と桐花ちゃんの身体が不自然に跳ねます。そしてその身体から陽炎がのぼり、それは不自然にとぐろを巻きます。
「再度命ずる! 疾くその身を顕せ!」
無色の陽炎は、紅蓮の焔に、そして大蛇の如き姿をとったかと思うと、それはさらに人型に転じます。
昏く赤い長髪、野生的な顔立ちの男性。ですがその身体からは焔が揺らめき、到底、人とは感じられないでしょう。
「……騰蛇、何をしました!」
「おお、久しぶりだなあ。お姉ちゃん」
「貴方に姉と呼ばれる筋合いはないわ。私の名前は茉莉よ」
「マツリー……マツリカ? まあいいや」
騰蛇は首を傾げます。ああ、私が彼と会った時は確かにまだ茉莉花でしたね。
「見れば分かるだろう?」
彼はそう言いながら虚ろな表情の桐花ちゃんの肩に手を回し、頬を撫でます。
「こいつは俺の使役に失敗したのさ」
私は小さく頷きます。
おそらく、新宿のあたりで強い霊障があり、桐花ちゃんが御役目に向かったのでしょう。人通りのない夜の神社を、さらに人払いの結界を張って悪しき霊との戦いの場として整えたはず。
そして桐花ちゃんは勝った。もし桐花ちゃんが負けるようなことあれば、梅お婆さまの、というか東京中の霊力者に即座に連絡がいっているはずですから。
しかし、その悪霊は強力であったのでしょう。桐花ちゃんは騰蛇を使役し、その制御に失敗した。そして隠の気を纏った焔が撒き散らされ火事となった。
「それは分かります。ですがなぜ、桐花ちゃんに取り憑いてここへ?」
「こいつはな、霊力不足で俺を呼びやがったんだ。だから、それを回収するために取り憑かせてもらったのさ」
桐花ちゃんが意識を失っているのは霊力枯渇によるものですか。最悪の状況、つまり桐花ちゃんが死んでいてその身体を動かしているのではないと知れて僅かに安堵します。いや、状況は厳しいのですけども。
ともあれ開祖、安倍晴明が残した十二天将は最高位の式神。騰蛇はその一柱です。
当然それを使役するには膨大な霊力が必要です。しかし今まで桐花ちゃんはそれに失敗したことはなかったのですが?
いや、それより回収と言いましたか……!?
「私から霊力を奪おうと?」
騰蛇がにやりと笑みを浮かべます。蛇のように尖った牙が唇からのぞきました。
「こいつに取り憑きゃ考えもわかる。桐花がそう考えてるのさ」
私の霊力を桐花ちゃんが……? ずきり、と頭の奥が痛みを覚えました。
彼は舌舐めずりして一歩前へ。足元に落ちていた木の葉が舞い上がり、燃え落ちました。私は思わず足を引きます。
「そして茉莉、お前の霊力がそんなにも芳醇で美味そうとは知らなんだ。いや、桐花の奥に眠る甘露、それはお前であったということか」
何を言っているのかよく分からないところもありますが、ともあれ私に言えることは一つ。
「近寄らないで、貴方に霊力を食べさせてあげる義理はないわ」
「堅いこと言うなよお姉ちゃん」
騰蛇はゆっくりと歩みを進めてきます。それは、私が逃げられないと確信しているからでしょう。
なぜなら、私の背後には師範学校があるからです。そこに逃げ込むわけにはいかない。
私が意を決して彼と対峙しようと決意した、その時でした。
「そこまでにしておきなさい」
そう、呑気な声がかけられたのです。
振り返ればそれは用務員のお爺さんでした。禿頭のご老人で服は作務衣、手に竹箒。
女生徒たちには人力車で登校する生徒も多いのですが、先日はそれが校門前で渋滞していて、交通整理なんかもしていらしたのを見ました。
「あぁん? この俺に命じるかよ人間」
「あんたが誰かは知らんが、ここは女学校なんでなあ。部外者の男の立ち入りは禁止じゃよ」
そう言いながらこちらに歩いてきます。私は思わず声を上げました。
「用務員さん! お下がりください!」
彼は大きな戦争にも参加したと聞きます。この女子師範学校の前は男子の師範学校で、剣道の指南もしていたと聞きました。ですがこれは人が勝てる相手ではない。
「お嬢ちゃん。なるほどこれは尋常な相手ではない」
「はい!」
「だがここは学校で君は生徒だからなぁ。大人が芋ひくわけにゃいかんのよ」
私は彼の前に立ち塞がろうとしましたが、ちょっと手首に触られたかと思うと、それだけで立ち位置を交換されていました。
「帰っちゃくれぬかね」
「無論」
「じゃあ仕方ねぇなあ」
その言葉に歓喜を感じたのは私だけでしょうか。
彼はくるりと手にしていた箒を手の内で回すと、穂先を足で折りました。そして木の棒を構えます。
空気が、張り詰めました。
騰蛇がずっと浮かべていた笑みを消します。
「……名乗れ」
「東京女子師範学校会計係兼庶務、藤田五郎」




