満ちゆくは十三夜の月。九
空中に投げ出されたヒスイは、仰向けに倒れた私の胸、腹と順に踏んづけて軽やかに着地しました。
「さっきまでも喋っていただろうに」
呆れたようにそう言って丸くなります。私のお腹の上で。
いや、そうは言いますけど、書生さんはそもそも人間だと思っていた訳ですし。猫の姿で話されるとそれはびっくりする訳で。
「だって、猫の姿ではにゃーとしか言ってなかったから」
「正体を見抜いてもいない人間の前で喋るはずもなかろうよ」
「妖だっていうのは最初からわかっていたけど……」
会った時に尾が二重に見えましたし、ときおり瞳が緑色に輝いて見える時があります。今は再び霊力を隠しているのか、尾は一本に、瞳は黒に金ですけども。
ヒスイはふん、と鼻で笑うような仕草をしました。
「猫又なんかじゃないってことよね」
「そうだ、そんな下位の妖と思われているようではな」
お腹のあたりに刺激が。ヒスイが抗議するように私のお腹を前足でてしてしと叩いていました。
「ヒスイー、重いー」
「座布団は文句を言わないものだ」
「私、おざぶとんじゃないし」
私が身を起こそうとすれば、やれやれとでも言いたげに畳の上に移動しました。私は彼の前に正座をして顔を覗き込みます。
「えっと、では上位の妖であるヒスイさん。年齢はおいくつでしょうか」
「年齢などとうに忘れた」
むむむ、と唸ります。ヒスイがとぼけているのか、本当に覚えていないのかは分かりません。ヒスイの精神性は私たち人間と大きく外れてはいないと思いますが、器物の妖や長く祀られた神などには時間感覚が薄かったりそもそも刻を認識していないものもいらっしゃいますので。
ああ、でも。
「そう言えばさっき、播磨の生まれって言ってたけど」
「うむ、播磨で生まれ、使い魔となって霊力を宿し、京で過ごしていた。その京が戦火で焼けた際に、東にやってきたのさ」
「戦火……鳥羽・伏見の戦い?」
「応仁の頃だ」
「お、お、応仁の乱!?」
江戸時代の生まれかなあと思って江戸末期の戦を言ったら、室町時代の話をされたんですが。四百五十年くらい前の話になるのかしら?
思わず、ひぇー、と声をあげてしまいます。
「大妖怪じゃない!」
「人間の基準は知らん。神ではないし、戦いに関わる在り方をしていないからな。決して強力な妖というわけでもないぞ」
それでも、それこそいわゆる猫又などとは妖の格が遥かに違うわけですから、ヒスイがそれと一緒にされて顔をしかめるのもわかるというものです。
私は話の続きをせがみました。
「別に人間の戦に巻き込まれて死ぬほど間抜けでもないが、僕を見て飯だと襲いかかってくるのに辟易としてな。一度は都の郊外に逃れたが、当時親しくしていた人間が飢えて死んでな……そんな悲しそうな顔をするな」
ヒスイの過去を、遠くを見つめる眼差しは、私に悲しみを覚えさせます。私は畳の上でぎゅっと拳を握りました。
「まあ、それで東に向かったわけだ」
「どうやって東京に来たの? 来たのは東京じゃなくて江戸かな」
「伊勢の御守り首から下げて旅をすれば、『まあまあ、なんて賢い猫ちゃんだ』とか言ってちやほやしてくれるのさ。人間ちょろい」
ヒスイは笑いながらそう言います。
あー、おかげ詣ですか。
伊勢神宮へのお詣りを村や町会の代表者が行うという風習ですが、時にはなぜか子供や犬猫がその代行をしていたことがあるとか。伊勢への旅人や沿道の人々がその世話をしていたと聞きます。
「でもよかった」
「何がだ」
「お伊勢詣りができたってことは、ヒスイは善良な妖ってことでしょう?」
悪しき妖怪がお伊勢様の鳥居をくぐれるはずがありませんもの。
ヒスイはふん、と鼻を鳴らすと、くしくしと顔を撫でました。そしてぷいっと背を向けます。まるで照れているような仕草。
「さて、僕は寝る」
「あら」
ヒスイは籐籠に前足をかけて振り返ります。
「お前に霊力を持っていかれたから眠い。この大喰らいめ」
私の霊力が満たされていることについてでしょう。ヒスイとの繋がりが深くなったことで、霊力が共有されたのです。
「女性に大喰らいはひどいのではなくて?」
「女扱いされたいなら、ちょっとは色気でも磨くといい」
「ひどーい」
「素材は悪くないんだがな」
ヒスイは部屋を見渡すような仕草をしてから籠に潜りました。
まあ、ヒスイが揶揄うのもわかりはします。部屋や服装など飾り気や化粧っ気に欠けると言いたいのでしょう。
「霊力を渡しちゃって大丈夫だったの?」
それに対する返事はありませんでしたが、尻尾を立ててゆらりと揺らしました。
問題ないということでしょうか。
「おやすみ、ヒスイ」
私はそう言って立ち上がると、音を立てないようそっと階下へ降りたのでした。




