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三日月の綺麗な或る宵の一幕  作者: ただのぎょー


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30/43

満ちゆくは十三夜の月。七

 名を当てる。しかもなんの手掛かりもないというのは、正直に言えば雲を掴むような、あるいは無限に広がる砂漠から砂金を一粒を拾うような話。

 つまり不可能ということです。

 しかし本当にそうでしょうか? 私は書生さんを見上げます。


「なんだね」


 そう言いながら書生さんは涼やかな、ですがどこか稚気ちきのある笑顔で私を見下ろします。

 そもそも全く知らない名前を当てろというでしょうか? 確かに暗号のように決して解かれないような問いかけをするということはあるでしょう。しかしこの表情。これは楽しんでいる者の顔に違いありません。


「楽しそうですね」

「そうだな」

「……ひどい人」


 つまりこれが謎かけであるとすれば、私が全く知らない名前にはならないのです。知っている名前か、あるいは私の知識の中で解ける問題。知っているはずなのに答えられないから、彼は楽しんでいるのです。

 ああ、道ゆく人々の視線がこちらに向いているのが分かります。

 天下の公道で殿方に縋り付いてるだなんて、不純で乱れた女と思われているでしょうか。あるいは長い別れかなにかの愁嘆場しゅうたんばか。

 しかし、そのようなことを気にしている場合ではないのです。私の頭は彼の名を探ることでいっぱいなので。

 あるいはそういうことにしておけば、こうして縋り付いている理由になるでしょうか。

 ふむ、と書生さんが私が掴んでいるのとは逆の手を顎先に当てておっしゃいます。


「君はあれだな。思考は早いようだが集中力がないな」

「……というと?」

「百面相をしている」


 顔色がころころ変わると言われてしまいました。今度は赤面して俯いてしまいます。

 頭上からは忍び笑いが漏れ聞こえます。しかしそれがぴたりと止みました。


「あるいはこれも呪いか?」


 そう、呟かれたのです。


「どういう、意味でしょう」

「いや、今の言葉は一度忘れなさい。名前はもういいか?」


 私は首を横に振ります。真剣に考えねば。

 洋の東西を問わず、名には神秘の力が宿っているという考えは一般的です。それは私たちのような術士の世界においては当然の常識ですが、それだけではなく民間の信仰や、物語などにもよく現れてきます。

 例えば最も有名なのは西遊記の紫金紅葫蘆しきんこうころでしょうか。金角・銀角の有していた宝具の一つである瓢箪ひょうたんで、持ち主が名を呼び、それに応えた者を瓢箪の中に吸い込んでしまうという恐ろしいものです。


「金さん? 銀さん?」

「金でも銀でもないぞ」


 そう尋ねれば、ちょっと憮然とした表情で、呆れたようにおっしゃいます。


「君は名付けも上手くなさそうだ」


 ぐぬぬ。

 ふと、思いました。そのようなことを言われたのは初めてです。しかし、そういう風に思われたであろうことが最近あることを。

 そしてそれに気づいた瞬間、まるで組み木が嵌っていくように。全ての今までの言動が組み上がっていくのです。


「ああ」


 彼は最初、名前はまだないと言っていた。

 お婆さまは彼のことを知っている様子だった。

 でも同級生の皆さんは彼を見かけたことがなかった。

 ミルクホールへ行くのは初めてだった。そしておそらく、フォークを使うのも初めてだった。

 私は彼の袖を引きます。


「……帰りましょう」

「おや、降参かい?」


 陽が落ちます。西の空は紅に燃え、それに背を向けて歩き始めれば影は地に長く大きく伸びて、人のものではないように。

 逢魔が刻です。昼と夜の境界。人が、魔に出逢う刻。

 そして、ああ、やはり。彼は人ではない。

 彼の外見は完全に人そのものです。陽の光も苦手にしていませんでしたし、容貌や気配にも魔の要素はありません。

 ですが、音がしない。

 書生さんは低い下駄を履いていますが、木が地面を削る音が、こうして歩いていても聞こえてこないのです。

 家が近づいてきました。私は振り返って彼の瞳を見上げます。黒であるのに榛色にも見える瞳。榛は複雑な色、茶色に黄や翠の光が含まれて……。


「ヒスイ」


 そう名を呼びます。書生さんはそれに合っているとも違うともおっしゃいませんでした。ですが彼の浮かべていた笑みは三日月のように深くなり、そして煙のようにその姿を消してしまったのでした。

 そしてその瞬間、私の認識にも大きな変化が起こります。

 ぶわり、と身が震えた気がしました。ずっと霞がかっていて、それが当然であると認識してしまっていた私の視界、そして思考。それが割れて砕け散るように消え、世界が鮮やかさを取り戻しました。

 無数の妖が、人に悪さをするわけでもない善良な、あるいは中立の霊なる者たち。幼い頃は常に私と共にあったそれらはいなくなったのではなく、ずっと隣にいて私が見えなくなっていただけなのだと。

 自らが盲目であったことに気づいておらず、それに慣れてしまっていた。そうです。世界はこんなにも鮮やかで、気配に満ちて賑やかであったのでした。


「ああ、みんな。ただいま」


 私はそう言いながら、家に入りました。

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― 新着の感想 ―
流れ変わったな( ˘ω˘ )
ですが、音がしない。  書生さんは低い下駄を履いていますが、木が地面を削る音が、こうして歩いていても聞こえてこないのです。 タシタシタシ
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