満ちゆくは十三夜の月。六
「では馳走になろう」
書生さんは卓上に置かれたミルクとシベリアをしばらく見ていたかと思うと、古風な物言いで頭を軽く下げられました。
「はい、どうぞ。私もいただきます」
そう言って私はミルクを一口。書生さんはミルクのグラスを手に取って口につけ、ちびり、と舌を湿らせる程度に飲まれました。
その慎重な様子に、思わず尋ねました。
「いかがです、か……?」
「うむ、うまい」
そうおっしゃってもう一口。
「近頃のにんげんは乳を良く飲むようになったな。良いことだと思う」
人間……奇妙な言い方ですがまあ日本人ということでしょうか。
ミルクホールというのは国の政策として、国民に洋風の食生活をさせることで体格を良くしようというものの一つであると聞きました。
実際、たまに外国の方も見かけるけど、やはり見上げるほど大きいですものねえ。そういう意味では書生さんのおっしゃるようにこれは『良いこと』なのでしょう。
そういえば……。
「三太さんは長身でいらっしゃいますね」
「三太でもないぞ。というかなぜまた三なのだ」
「では四?」
「増やすな。そもそも数字ではない」
殿方の平均身長は五尺二寸程度と聞きますが、書生さんは五尺五寸ほどあるのではないでしょうか。
きっとご出身のあたりではミルクを飲まれていたのでしょう。
彼はちびちびとミルクを飲みながらも、視線が卓上のお菓子に落ちています。どうやら気になる様子。
「これがしべりや」
「はい」
皿の上にはシベリア、黄色と黒の縞模様になったお菓子が載っています。手前にはお菓子用の小ぶりなフォーク。
「食べぬのか?」
「……いただきます」
私が先に食べるのを待ってくださったのでしょうか。私はフォークを手に取って、黄色の部分と黒の部分が両方取れるようにフォークで切ります。黄色い部分はカステラ生地、黒は羊羹のような粘り気の強い餡でできているのです。
書生さんはその様子をじっと見つめています。ちょっと見られているのは恥ずかしいのですが、私はそれを口に入れると、左手で口元を隠しました。
口を動かしていると、カステラのふんわりとした甘さと、餡のねっとりと絡みつくような甘さが混ざり合った美味しさが口内に広がっていくのです。
そしてミルクを口に含めば、ミルクにシベリアの甘さと香りが加わって、これがまた美味しいのです。甘さを洗い流した口で再びお菓子に手を伸ばせば、これはもう永久機関というもので……。
私は手を止めます。書生さんがこちらを見ているのでした。
「うまいか」
「はい」
彼は私の言葉に神妙に頷くと、フォークに手を伸ばしてシベリアを口に運びました。
くわっと目が見開かれます。口はもぐもぐと動きますが、フォークを運んだ手も、身体の他の部分も微動だにせず、その味を全身で感じているかのよう。
ちょっと心配になるくらいの時間が経って、口の中のお菓子もなくなったのでしょう。彼はぽつりと呟くようにおっしゃいました。
「うまい……」
「それは良かったです」
私もほっと安心して再びシベリアを口にします。
書生さんも追いかけるように二口目を口にされました。
「うまいが、なぜしべりやという名なのだ。これではしべりやではなく虎柄では?」
半分ほど食べ進めたところで人心地ついたのでしょうか。そんなことをおっしゃいました。
虎柄には思わず笑ってしまいます。
「黄色に黒はシベリアの大地を走る鉄道の線路を表しているとか? 真偽は分かりかねますけども」
ふむ。と頷いて書生さんは窓の外に視線をやりました。
先ほど通りがかった路面電車を思い浮かべているような気がします。多分、シベリア鉄道はチンチン鐘を鳴らして走っているんじゃないと思いますけど。
結局、お話をしながら二人ともシベリアをぺろりと平らげました。お代わりはいりますか? と尋ねましたが、それは断られていまいました。
「ではそろそろ出ようか」
「あっ、はい」
ちょうどお店が混雑してくる時間帯でした。食べ終わって長居するのも良くありませんし、仕方ありません。
「少し歩くかね?」
「はい!」
このあたりは洋服問屋として栄えていて、飲食店や寄席なども立ち並んでいるのです。特に何か買うわけでもありませんが、書生さんと並んで道を歩いて店先を覗いていれば、同じ通りを歩いていても素敵に感じられるもので。
でも楽しい時間は過ぎるのが早いもの。お会いしたのが午後といいうのもありますが、陽は傾いてきています。長くなった影を寄り添わせて神田川のほとりを歩いていけば、すぐに家が近づいてきます。
「また会えますか?」
「いつかね」
「……ずるいです」
私ははしたないとわかっていても、書生さんの袖をちょっと摘みました。
「書生さんは、私の質問には答えてくださらないんですもの」
書生さんは自分のことについてはほとんど教えてくれないのです。
「僕の名が言えればね」
私はじっと恨めしさの意図も込めて書生さんを見上げます。一筋の白髪が夕陽に染まっていました。




