満ちゆくは十三夜の月。五
書生さんが私を見下ろし尋ねます。
「ところでミルクホオルとはなにか」
「えっ……」
ご存じない。
本当にどこに連れて行ってもいいから、ミルクホールでも構わないという様子です。
「えっと、ミルクホールっていうのはですね。牛乳とパンなんかの軽食を出す飲食店で」
「乳か」
「はい」
「悪くない」
「良かったです」
乳という言い方もどうかと思いますが、書生さんが悪くないとおっしゃいながら微笑んで眼を細められました。それはどこか可愛らしくもあり、蠱惑的でもあり、私の胸は再びとくりと跳ねたのです。
「ミルクホールは学生などが安価に食事ができる場所で、駅のそばや学生街には多く立ち並んでいます」
「ふむ」
「新聞縦覧場になっていて、新聞や雑誌を置いてある店も多く、学生が時間を潰したり待ち合わせに使ったりと……ああ」
「どうかしたか?」
胸の高鳴りを誤魔化そうとしてか、求められてもいない説明を捲し立ててしまいました。
「すいません、お耳汚しを」
「教えてくれたのだろう? 何の問題もない」
うう、優しい……。
それにしても、私が生まれた頃ならともかく、今では東京だけでなく地方の都市にもミルクホールはあるはずです。
書生さんはやはり最近、上京されたのでしょうか。それもあまりそういうのがない田舎の方から。
「書生さんのいたところにはありませんでしたか?」
「そうだなあ、ミルクホオルなどというものはどこにもなかったなあ」
書生さんはどこか遠くを見るような目つきになります。それは遥か遠くに向かっていて、彼の瞳が光の加減か榛色に輝いて見えました。
「どちらのご出身かうかがっても?」
「ああ、播磨の方だ」
播磨、と言えば瀬戸内地方に面した兵庫県の南西部のあたりです。そちらに行ったことはないのですが、兵庫といえば神戸港があって海外の文化が入っている、それこそミルクホールだろうと何軒もありそうなはずなのですけどね。それより西はあまりないのでしょうか……? そもそも東京に来る前に神戸には寄らなかったのでしょうか。
話しながら歩いているうちに、道行く人の数が増えてきました。道が太くなり、道路には路面電車の線路が走っています。万世橋駅のあたりに出たのです。
御茶ノ水でも良かったのですが、学生街の店は日曜日休みが多いですからね。
「えっと……あちらです」
チンチンとベルを鳴らしながら走る電車が通り過ぎるのを待って道を渡り、目的の店へ。モダン建築といわれるコンクリートの建物の入口に、ミルクホールと書かれた暖簾が掛かっています。
「では入ろうか」
「はい、書生さん。……あ!」
そう言ったところで、はっと思い至りました。
私は思わず路上で立ち止まり、書生さんは引き戸に手をかけたところで振り返ります。
「私……名前を!」
「マツリさんだろう?」
「そうではなく! 書生さんのお名前を結局うかがってません」
最初に会ったとき、私は名を名乗りました。それを覚えていただけていたのは嬉しいのですが、それはともかく。
『フシ……いや、まだない』
彼はごまかすように、そうおっしゃっていました。つまり名乗っていただけてないのです。そしてせっかく再会できたというのに、聞くのを忘れていました。
「お教えいただけますか?」
「当ててみると良い」
彼は笑いながらそう言うと、暖簾をくぐっていってしまったのです。もう!
店の中はそれなりにお客さんが入っていました。煙管で煙草をふかしながら新聞を読んでいるご老人、自由主義やらアナキズムがどうこうと口角泡を飛ばしながら話し合う若い男性たちのグループ。女性たちが書生さんの顔を見て色めきたちましたが、私という連れがいるのを見てつまらなそうに目を逸らしました。ともあれ、座れないというほどではありません。
私たちは壁際の席に座ります。
「三郎さん」
「誰だそれは」
「当ててみろとおっしゃったので」
書生さんは首を横に振ります。
「食べたいものはありますか?」
「任せる」
「では……甘いものは?」
「大丈夫だ」
私はカウンターに向かうと注文をして戻ってきました。
「ミルクとシベリアを頼んできましたよ」
「しべりや?」
書生さんはこてん、と首を傾げます。
端正なお顔だちで長身なのに、少し隙のある言動をなさって可愛らしいのもずるい。
「人気のお菓子ですよ」
「楽しみだ」
ふと、気付きました。
「そういえばお煙草は吸われないのですね?」
注文して戻ってきても灰皿を手元に寄せたりした様子がありません。世の男性の大半は煙草を吸うものです。吸わない方が珍しい。
彼が書生服なのに困窮しているように見えない、どことなく品がある理由の1つが分かりました。シャツが煙に汚れた感じがしないのです。
「あまり好まん」
「良いことだと思います」
そんな話をしていると。店員さんがお盆の上にミルクとシベリアを持ってきてくださいました。
書生さんの鼻が、ぴくりと動きました。




