満ちゆくは十三夜の月。四
「なんだろうか」
「えっと……」
どうして私の右手は伸びてしまったのでしょう。どうして書生さんの脇の辺り、紺の着物を摘んでしまっているのでしょう。衝動的に動いてしまったことに私自身が困惑しています。
そんな私に書生さんは優しくお声がけくださいました。
「大丈夫だ、安心するといい。妹御はしばらく寄りつくまい」
いえ、不安に思っているのではなく……。あっ、そうです。
「……しょ!」
「しょ?」
意気込みすぎて言葉が途切れてしまい、書生さんの首がゆるりと傾げられます。一筋の白髪がはらりと垂れました。恥ずかしい気持ちをおさえてもう一度。
「しょ、食事をご一緒しませんか」
「……ふむ」
「えっと、あの。前にお助けいただいた時にですね。『次に会う機会あれば食事でも』と」
三馬鹿さんから助けていただいた時のことを言えば、ああ、と書生さんは得心した様子で頷きます。
「そういえば、次に会えば、と約してしまったか。であれば断る訳にはいかないかな」
「はいっ」
あれは私に恩着せずにその場を立ち去るための方便であったというのは分かっています。それでもせっかくまたこうして出会えて、しかもまた困っているところに手助けしてくれたのですから。
玄関脇に立つ梅お婆さまがおっしゃいます。
「逢引きかい」
「あ、あ、ああ逢引きなどでは!」
「構わないさね」
そう言うと、くっくっく、とお婆さまは面白そうに喉の奥で笑われました。
「前に会った時にちゃんとコナかけてるじゃないか」
「違います! あちらから言い出してくれたことで……!」
「褒めてるんだがねぇ?」
揶揄ってくるお婆さまはともかく、私は書生さんに頭を下げます。
「お待ちください、着替えてきますので!」
「いや、そのままで構わないが」
なぜか書生さんは焦ったような気配を浮かべました。なんでしょう。本当はあまり時間がないのかしら? ご迷惑だったかもしれません……。
「迷惑なんぞかけちゃいないから、とっとと行ってきな」
お婆さまはまるで私の心を読んでいるかのようにそんなことをおっしゃい、家の中に戻って行きます。あ、そうだ、これだけは。
「すいません、せめて靴だけは履き替えますね!」
「そうか」
書生さんはそれでも気にせぬというそぶりですが、さすがに突っ掛けで一緒に歩くのは書生さんに恥をかかせてしまうでしょう。
玄関の式台に腰をおろして、急いでブーツだけ履き替えていると、部屋に戻った梅お婆さまがやってきました。そして靴紐を結んでいる私の膝下になにやら投げ渡します。見ればそれはお財布でした。
「それ、持っていけ」
「あ、ありがとうございます」
「今日中に帰ってくるんだよ」
「当たり前です!」
また笑っているお婆さまを後にして書生さんのもとへ。
腕組みをしながら道端でぼうっと立っているだけなのに、どことなく気品を感じます。
「お待たせしました!」
「いや、待っていないぞ」
「はい、では行きましょう」
そう言ってとりあえず歩き出しました。この後の予定がおありかもしれませんし。
「何か食べたいものとかありますか」
「特には。あまりこのあたりの店には詳しくないしなぁ」
そうおっしゃいます。千代さんが言っていたように、このあたりに越してこられた方なのかしら。それとも書生さんといえば苦学をなされている方が多いですし、あまり外食とかなさらないのでしょうか。
ちらと男性を見上げます。書生風の身なりをしていらっしゃるから書生さんと考えていましたが、そもそも彼が本当に書生であるかどうかも知らぬのです。実際、長身細身ではありますが、決して痩せているわけではありません。というか、肩を抱かれたりしたときの感触から、割と筋肉質であることを知っています。
顔に血が昇ってくるのを感じました。
「どうかしたか?」
「いえっ! なんでもありません!」
私に尋ね掛けた書生さんは、そうか、とおっしゃると前を向かれました。白いシャツの上からのぞく、うなじから襟足にかけての線がどうにも艶かしくて、私は歩みを早めました。
横に並んでしまえば目に入りませんから。
それはともかく私も困りました。私もお店は詳しくないのです……。
先日、誠二様に連れて行かれた上野のレストラン、精養軒とおっしゃったかしら。美味しかったですけどちょっとこの格好では……。お婆さまからお財布を預かっていても、あまり高いお店に行く訳にはいきませんし、それに神田から上野まで歩いて行くには遠いでしょう。
「お腹はすいてらっしゃいますか?」
「ある程度は。でも軽めで良い」
それはそうです。桐花ちゃんだって食事時に来た訳じゃありませんものおやつ、軽食でもということでしょう。ううう、こんなことなら流行りのお店くらいお友達に聞いておけば良かった。
「ミルクホールで良いですか……?」
「うん」
後悔は先にたちません。私が絞り出したのがそれで、しかし書生さんは特に気にした様子もなく、頷いてくださったのでした。




