満ちゆくは十三夜の月。三
「そこまでにしておくのだな」
いつのまに現れたのでしょう。聞き覚えのある殿方の声。そして黒髪に一筋の白髪、長身でありながら涼やかな立ち姿。
あの三馬鹿さんに絡まれた日に助けてくださった書生さんが、またいらしてくださったのです。
「どうしてここに?」
「……ん? 歩いていたら何やら揉めているのを見かけてな。ただのお節介だ」
教室で文子さんが白皙のと評した、涼しげで整った顔でそうおっしゃいます。
確かにここは路上です。見かけることもあるかもしれませんが、こうして二度も私が困っているときに通りがかるものでしょうか。私の頭の中で文子さんが『まぁー、これは運命よ! 間違いないわね!』などとはしゃいでいるのが見えた気がします。
いやいやいやいや。私はかぶりを振り、浮かんできた考えを否定します。
「離してっ! 離しなさい!」
その声に意識が引き戻されました。
桐花ちゃんがそう声を荒げます。書生さんの大きな手が桐花ちゃんの手首を掴んでいました。
「彼女に触らないと約せるのなら」
「あれは私のお姉ちゃんなのよ!」
書生さんは表情に呆れを浮かべ、隠そうともしません。
「姉妹であるからといって、手をあげて良い理由にはなるまい」
桐花ちゃんはぶんぶんと手を振り、身を捩って掴まれた手を外します。
しかし、書生さんは私と桐花ちゃんの間に身を滑り込ませ、桐花ちゃんの手が私に触れないような位置に立ち塞がってくれました。
「なんなのよ、貴方関係ないでしょう!?」
「関係なくとも、女性に手をあげようとしていれば止めるくらいはするものだが」
書生さんはあの時のように、私にちらりと視線をやります。胸がどきりと高鳴りました。
期待通り……いやいや、案の定、彼は片手で私の肩を抱きます。
「彼女は好いた仲なのだ」
「なっ!」
桐花ちゃんは衝撃を受けた様子。書生さんはさらに畳み掛けます。
「僕の女に手を出すなということだよ」
「ふ、ふふふ、不純よ!」
まあ、そうですよねー。学生の身でありながらと思えば明らかな不純異性交遊です。いや、実際は嘘だからそうではない? でも見知らぬ殿方に肩を抱かれているのはやはり不純では?
混乱してきます。いや、そもそもですね。
「桐花ちゃん。確かにそうかもしれないわ。でもね。未婚の女学生に妾になるよう勧めるのは、もっと不純だと思うわ」
これには反論できぬ様子。ぐぬぬと唸り、歯軋りの音すら聞こえてくるようです。
きっ、と書生さんを見上げ、鋭い視線を向けます。
「誰なのよ、名乗りなさい」
「自分から名乗らぬ女に名乗る趣味はないな」
書生さんは余裕の表情です。
「どこの馬の骨ともわからない男が、お姉ちゃんに近づくことを許せると思うの?」
「君はそれに許しを与える立場ではないと思うが?」
実際、私は倉橋を追放された身ですからね。建前としては縁が切れています。
「変な男に引っかかられて、家に迷惑をかけられても困るのよ!」
それもまた事実ではあるでしょう。書生さんはどう反論するのか。そう思っていたら、横手から声がかかりました。
「その男については知っている。問題はないさね」
梅お婆さまでした。薄荷の入った煙管を手に、玄関先まで出て来られた様子。
桐花ちゃんはうげっと嫌そうな表情を浮かべます。そういうのは思っても表に出さないようにしなくてはいけませんのに。
「こ、こんにちは」
「はいよ」
「誰なのよ……なんですか?」
さて、お婆さまと書生さんには面識があるのでしょうか。それとも話にのっているだけなのか。実際、お婆さまはまともに答えるつもりがないようで、煙管を咥えてゆっくりと息をついてからおっしゃいます。
「ふん、わからんようじゃ倉橋の次期もたかが知れてるね。茉莉もだが」
「何を言って」
「茉莉を預かってるあたしが文句ないと言ってるのだから問題ないだろう?」
「そんな言い分……!」
桐花ちゃんが反論しようとしたその時でした。
書生さんは背を曲げて、桐花ちゃんの耳元に口を寄せます。そしてぼそりと声を掛けられました。
何と呟いたのは聞こえませんでした。ただ、本当に一言、二言の短い言葉だけを。ですが桐花ちゃんの反応は劇的でした。顔を羞恥に、あるいは怒りに紅く染め。射殺すような視線を書生さんに向けます。
そして私の方も睨みつけました。
「不快よ! 帰るわ!」
そう言って踵を返したのでした。
「ええ、気をつけてね」
私はその背に声を掛けますが、返事はありません。
書生さんは何を言ったのでしょうか、酷い侮辱の言葉を投げかけたとしてもああは反応しないでしょう。あれは、何か本質を言い当てられた反応に見えました。
彼は桐花ちゃんの背を切れ長の鋭い視線で見つめていらっしゃいましたが、彼女の背が塀の向こうに消え、しばらくしてからこちらに振り返りました。
「行ったようだ」
「あ、ありがとうございました」
「うむ、大事ないなら何よりだ。では壮健でな」
書生さんはそう言って彼もまた背を向けます。行ってしまう。思わず私は手を伸ばしました。




