満ちゆくは十三夜の月。二
その後、休憩時間に校庭に出て、千代さんにだけ少し踏み込んでこちらの状況をお伝えしました。
「まあ、華族の噂話を少々聞き齧っていれば、ねえ。倉橋のお嬢さま」
千代さんは、はじめからわかっていたようでした。私は社交の場に出ていませんので、入学前の直接の面識はありません。でも九条誠二様の婚約者について調べれば、自ずとわかるというものでしょう。私は軽く肩を竦めます。
「今の私は栗橋茉莉でしてよ」
「ええ、もちろんよ。私の大切な大切な茉莉さん」
そう言って私を抱きしめてみせます。
外に出ていて話は聞こえなくとも、校舎の窓から何人かがこちらの様子をうかがっている訳で。
「まあまあ、これが噂のエスというものですか?」
「書生さんというものがありながら」
そう囃し立てられました。ちなみにエスというのは女学生同士での特別に親密な関係を、シスタァの頭文字にちなんで付けられた隠語であるとか。
「ちがいまーすー」
「まあ、私のことは遊びでしたの」
よよよ、と泣き崩れる真似までされて遊ばれてしまうのでした。まあ、こうして深刻にならないようにはからってくれる千代さんは、得難い友人であるというのは間違いありませんけどもね。
さて、その週の終わり。日曜日のことでした。
「お邪魔します!」
私が二階の自室で自習をしたり、猫ちゃんと遊んでいると階下から声が響きました。桐花ちゃんの声です。
普段の明るい声とは異なり、声が荒いように感じました。
まあ、用件はわかります。誠二様との先日の件でしょう。今日はおそらくやってくるだろうなぁと思っていました。
二階の窓から見下ろせば、睨むようにしてこちらを見上げる桐花ちゃんと視線が合います。
「今行くわ」
そう声をかけ、ヒスイには部屋にいてねと告げて階下へ。
「ごきげんよう」
「ええ」
いつもは玄関先で話すことが多い桐花ちゃんですが、不機嫌そうな表情で手招きをしてきます。
私は突っ掛けを履いて外へ。桐花ちゃんは道路の反対側まで私を呼びよせます。桐花ちゃんが言葉を発する前に、まずは頭を下げました。
「遠方での御役目、お疲れ様でした」
「ん、うん」
桐花ちゃんは機先を制されたように戸惑った声を発します。
「ご無事に勤め上げられられましたか?」
「と、当然でしょう!」
「素晴らしいことです。誇りに思います」
この言葉がするりと口から出ました。今まで、桐花ちゃんの活躍を聞くと、胸の灼けるような想いがあったのですが、それがどこかにいってしまったかのようです。
少しの間、桐花ちゃんは口の辺りをもにゅもにゅ動かしていましたが、はっとした顔つきをされて言いました。
「そんなことはいいのよ! なんで断ったの!」
「誠二様にお世話になるというお話でしょうか」
「他にないでしょ!」
桐花ちゃんが家から距離を取ったのは、梅お婆さまにこれを、妾うんぬんという話をあまり聞かれたくはないためでしょう。
私は意識的に胸を張ります。気後れしないよう、流されぬよう。
「桐花ちゃん、いえ、倉橋桐花さん」
「な、なによ」
「確かに有難いお申し出なのかもしれません」
「そうよ。私も誠二さんもお姉ちゃんを困窮させたりはしないわ」
私は頷きます。
「それはその通りでしょう。ですが、誠二様にもお伝えしたとおり、私はまだ日陰の身になる気はありませんよ」
「日陰って……不自由はさせないと言ってるでしょ?」
私は首を横に振りました。
「金銭的なことを言っているのではないわ。私の将来について。仕事とか、立場とか世間の目とか色々とあるでしょう」
「何を言ってるの?」
桐花ちゃんにはこのあたりはわからないでしょうか。いや、私も倉橋の家にいたら、将来の仕事だなんて考えることもありませんでしたよね。そうですね、桐花ちゃんにわかる範囲だと……。
「たとえば今回のこと、倉橋のご当主様と奥様……。お父さまやお母さまは認知していないか、あるいは既に反対されたのでは?」
桐花ちゃんの目が気まずげに動きました。
まあ当然でしょう。そもそも梅お婆さまのところで師範学校に通うよう言ってきたのはお父さまです。それに逆行するような話に賛成するはずがありません。お母さまに関しては、私が桐花ちゃんや誠二様と関わり続けるのを嫌と考えるはずですから。
「いいのよ! いずれ倉橋は私が継ぐんだから」
「それはそうですが、まだまだ先の話でしょう。それに……」
私は息を整えます。
「それに?」
「桐花ちゃん。私がそれを望んでいないのです」
そう、言い切りました。桐花ちゃんの顔が青褪め、そして頬に朱が走ります。
「なによ!」
桐花ちゃんはまるで幼子が癇癪を起こすように地面を踏みつけます。そして続けて叫びました。
「お姉ちゃんは私の言うことを聞いていればいいの!」
桐花ちゃんの手が私の胸元に伸びてきました。
私は身を固くします。しかしその手が、私に届くことはなかったのです。




