満ちゆくは十三夜の月。一
誠二様が帰られて少し経って、レストランの店員の方が私に近づいてきました。
「お嬢様、人力車の用意ができました」
もうお嬢様じゃありませんけども。
「ありがとうございます。あの、今日はすいませんでした。食事を残してしまって。でも、おいしかったです」
「ありがとうございます。ぜひまたお越しください」
そうあたたかく声をかけられて、私はお店を後にしました。
「神田の須田町までお願いします」
「へい」
私が人力車に乗り込むと、「あらよっと!」と威勢の良い掛け声と共に車夫の方が走り始め、夕暮れの涼やかな風が顔を撫でます。
そう、前を向こう。誠二様と、あるいは倉橋の家とは辛い思い出も多いけど、楽しく美しい日々もありました。
でもそれらは全て過去。その思い出に浸るにはまだ若すぎる。なんといっても花の十代、ハイカラで、世にも名高きお茶の水東京女高師のスチユーデントというものなのですから。そう、自分に言い聞かせました。
初夏の夕暮れ、もう六時過ぎですが、まだ陽は残っています。天を見上げれば半月よりも少し丸みを帯びた月が昇り、昏くなりつつある東の空には星が瞬いています。
ふと、その星が滲んで見えなくなりました。
「ぐすっ……」
鞄から手巾を取り出して顔を拭います。
人力車がガラガラと音を立てて神田川に差し掛かり、車夫の方が問いかけてきます。
「お嬢様、須田はどちらまで行きましょうか」
「橋を渡ったところまでで大丈夫です」
「はいよ!」
私の声は少し掠れていたかもしれません。ですが、人力車曳きの力強い掛け声が、ちょっと元気をくれた気がします。
お代を払った時に、泣いていたことに気づいたのでしょう。彼は去り際に心配げな視線をちらちらと向けてくださいました。川っぷちで停めたから、もしや身投げをするのではと不安に思わせてしまったかもしれませんね。
私は橋の欄干に身を預け、少しの間涙を落としました。泣くのはこれ限りにしよう。そう決めて、落ち着いてからお婆さまの家に帰ったのですが、酷い顔だったのだと思います。
「ただいま戻りました」
そう言ってお婆さまの部屋に入れば、ヒスイにはぎょっと驚いたような顔をされました。この猫ちゃんは表情が豊かなのです。
「いい女の顔になったじゃないか」
お婆さまには笑ってそう言われました。褒められているのか、揶揄われているのかは微妙なところでしょう。あるいはその両方かもしれませんが。
お婆さまと今日の話をして、二階の自室に上がります。猫ちゃんは軽やかにとんとんと私について上がってきます。
「ヒスイ」
猫ちゃんは首をぐいっともたげて私を見ます。
「私、頑張るから」
「んに」
そうひと鳴きすると籐籠の中に潜り込んでいってしまいました。
そうだねと肯定してくれたのか、何言ってるんだと呆れられているのか、あるいは単におやすみだったのかもしれません。
まあきっとかしこさんなので、私の決意を聞いてくれたのだと思っておきましょう。
さて、誠二様とお会いした翌日ですが、まあ大変でした。何がって、それはもう学校がです。正確には学友たちが、ですね。
「ご機嫌よう、みなさん」
「茉莉さん!」
「見ましてよ、茉莉さん」
「さあ、話すのです。茉莉さん」
「えっと……」
みなさま、興味津々という目つきで集まってきます。
昨日の下校時に誠二様に連れられて行ったので、何人かの友人にその姿を見られていたのでした。
「あの方、九条家のご令息と聞きましてよ」
「白皙の書生様というものがありながら!」
「さあ、吐くのです、茉莉さん。書生さんとご令息、どちらが本命なのですか!」
私はどうどう、と宥めるように手を前に出します。
「まずですね、書生さんとはまだなにもありません」
「九条様は?」
私は唇の前に人差し指を置きました。
「秘密ですよ」
みなさま集まってきて、頭を寄せ合います。
「実はですね、……元婚約者なのです」
息を呑む音、悲鳴のような歓声のようなものをあげかける音。
「九条家と……!?」
どなたかが思わずといったように声を漏らします。
私は自身の出自については話していません。
ですが、ここは高等女子師範学校。この国で高等教育を受けられる女性など、やはり良家の子女が多いものです。伯爵である九条家と結びついていたということは、私が華族出身というのが彼女たちには明らかでしょう。
「ふふ。実は私、家出している不良学生ですのよ」
ぎょっとした表情。
千代さんが優しげな声でおっしゃいます。
「茉莉さんが不良学生とは思えないし、ちょっとお家のことに土足では踏み込めないわ。でもご実家から離れているという理解でいいのかしら」
「よろしくてよ」
あえて千代さんがそう線引きしてくれたことで、みなさま少しほっとした様子。華族家の内輪に首を突っ込むのは厳しいですものねぇ。
「それで、その家から離れるときに婚約が解消されたのかしら」
「ええ」
「なるほど、それなら昨日はなんだったのか聞いてもよろしくて?」
えーっと、流石に妾という話はできませんので。
「ちょっとその婚約が破談になる時にお会いすることが叶わなかったのです。それで、改めてお別れをしてきましたわ」
私がそう言って頭をあげれば、みなさま、はーっとため息を吐きます。
「茉莉さん」
千代さんが笑みを浮かべてみせます。
「吹っ切れたのね?」
「ええ」
私はにっこりと笑みを浮かべて差し上げました。




