張子の月は光らない。前
なまっ白い小娘が家の門を叩いたのは、睦月、まだ松の内も開けてない頃のことだった。
「梅お婆さま、お久しぶりです。明けましておめでとうございます」
玄関先の門松の脇に立ち、深々と下げられた頭が目に入る。若く艶やかで、だが飾り気のない黒髪が垂れている。
「ああ、茉莉花……いや、栗橋茉莉だったね。話は聞いてるよ」
倉橋家直系の娘には名前に花をつける。そして護国の役目を継がぬ者からはその名から花を摘む、そんな習わしがあるのさ。
つまりあたしも、かつては梅花という名だったってことさね。
まあ、そんな昔の話はいい。今は目の前の小娘のことだ。
「ふん」
あたしが鼻を鳴らせば、彼女はまるで怯えでもするように肩を揺らしてこちらを見上げた。
「出かけるよ」
「えっと……」
「荷物置いてついてきな」
茉莉は荷物を玄関の三和土に置く。もちろんそれなりの量ではあるけど、これからここで暮らすというにしては少ないとも思う。
まだ正月の浮かれた気配が色濃く残る神田の街並みを歩く。家の近くに、まつやという割と美味い蕎麦屋があるので、その前を通った時に尋ねてみた。
「腹は減っているかい?」
「い、いえ!」
遠慮しいめ。そう思いもする。
ならばと神田川にかかるお茶の水橋を越えれば、すぐに湯島聖堂の土塀が見える。
「ほれ、そこがあんたの通う学校」
「あ、ここが師範学校……。案内ありがとうございます!」
「ついでさね。学校への挨拶はまた今度な」
「えっと……どちらへ行かれるのでしょう?」
それには答えず、そのまままっすぐ坂を上って、太い道に当たったところで左に折れれば、道の向かいには大きな鳥居が見える。
「神田明神な」
「はい、明神様。お詣りですか?」
「ふん、年明けに行ったばかりさね」
向かったのはその鳥居の脇にある小さな店、天野屋。昔から神田明神の傍でやってる甘味屋である。暖簾をくぐれば奥の席が空いていたので、そこに座る。
「いらっしゃいませ、先生」
そう、見知った女給が声をかける。
「ああ」
「ご注文は」
ちらりと茉莉に視線をやれば、任せますとでもいうように頷いた。
「甘酒を二つ」
女給が引っ込んだ後で、彼女が問う。
「先生というのは?」
「ここの甘酒は地下で仕込んでてね。その土室に悪さをする霊が入り込んだから、ちょいと払ったことがあるのさ」
得心したとでもいうように彼女は頷く。
「つまり今日はここでお仕事ですか?」
「いや、甘酒飲みにきただけだが?」
彼女はぽかん、とした表情を浮かべた。
「いいかい、末莉。覚えときな。人生は、仕事と勉強だけでできてるんじゃないんだ」
「仕事と勉強だけではない……」
「あんた、それしか知らない顔をしてんのさ」
それがなまっ白い顔になってるのよ。霊力を喪って、家を追い出されたってのが直接の原因にせよね。
なにやら悩むような表情を浮かべて末莉は黙り込んだので、あたしも特に何も言いはしない。待たされるまでもなく、女給が戻ってきて甘酒が供される。
あたしと末莉の前に、乳のような白い液体に満たされた小振りな湯呑みと、それより小さな小皿が一枚。その上には茶色い塊がのっている。
「甘酒お待たせしました。お孫さんですか?」
「親戚さね。姉の孫にあたるか。ともあれ、しばらく家で預かることになった」
「それはそれは、ご贔屓に。ごゆっくりどうぞ」
あたしが甘酒の器を摘まんでも、小娘はまだ動かない。どうにも重症だねぇ、と溜め息でも吐きたくなる。
「ほれ、飲みな」
「いただきます」
小娘は両手で甘酒の入った器を包み込むように持ち、ちびりと口にした。
指先が荒れてるのが気にかかる。が、まあわざわざ口にするまでもない。
「温かい……」
「そうかい」
そりゃまあ睦月に外を歩いてたんだし寒かろう。こいつは特に倉橋の家から神田まできてるんだし特にね。あたしも手にした甘酒を口にすりゃ身体がほう、と温まる。ここの甘酒は酒粕ではなく、麹から造っているから癖がないんで飲みやすくもある。
「梅お婆さま」
茉莉は湯呑みを手で包んだまま、ぽつりと呟いた。
「なにさね」
「私は倉橋を、御役目を継ぐ者としてずっとその……勉強や訓練などをするように言われてました」
「だろうね」
まあ、彼女の家のことは知っているさ。
「それは間違っていたのでしょうか」
「そうだよ」
あたしが断言すると、小娘は衝撃を受けたように頭を跳ね上げてこちらを見つめる。
今日、初めてちゃんと視線が合った気がするね。あたしは言葉を続ける。
「ただ、間違ってるのはあんたじゃない。あんたの家さ」
歪なんだよ。そして、この娘はそれに慣れすぎていて気づいていない。
本家の子だってなら外から口出しはできんが、あたしの家に預けたからには、人並みにはなってもらいたいもんだね。
ξ˚⊿˚)ξばばあ視点、過去話前後編。




