上弦の月は地平に嗤う。六・裏
「……ふうん、そうかい。わかったよ。ご苦労さん」
ここの家主の婆様が、玄関先で小僧と何やら話している。
話はすぐに終わったようで、小僧は頭を下げてさっさとその場を後にした。戸を閉めて振り返った婆様の視線が、廊下の板張りの上で見上げる僕の視線と合う。
「猫やい。お前さんの主人は今日の帰りが遅くなるようだ」
「なぁ」
「美味いもん食ってくるんだと」
僕は首を傾げた。
「昔の男とね」
……彼女はそれを僕に伝えてどういう反応を期待しているのだろうか。
ぴぴぴ、と耳を振れば、婆様はにやりと笑みを浮かべる。
「ま、あんたは婆と寂しく飯を食おうか」
僕はのそりと起き上がって、歩いて行った彼女の後を追う。
まあ、この梅なる老婆はそう言うが、そもそも僕を拾った茉莉は拾ってすぐに体調を崩して寝込んでいたので、あるじという印象はない。
寝ている彼女の枕元から低級の妖を追い払ったりしていたのもあり、せいぜいが手のかかる妹程度の存在である。それに、その間の飯をくれているのもこの婆様であるしな。
僕は彼女の部屋の片隅に積んである座布団の上で丸くなる。
婆様は自分の座布団に座った。
彼女は引き出しから煙管を取り出す。そして刻み煙草ではなく、薄荷脳の欠片を詰めて吸い始める。
どことなく涼しげな香りが部屋に満ちた。
「あれも因果な娘でね……」
どうやら、飯の支度の前に何やら話を始めるようだ。
僕は別に返事もしなければ相槌も打たないから、話し相手にはいまいち向かないと思うのだけれど、まあ人間というものは、特に人間の女性というものは壁に話しかけるよりは猫に話しかけることを好むものである。
ここ数日、婆様から茉莉の生家と妹についてはなんとなく聞いていた。華族という、まあ昔でいう貴族みたいなものの出身で、そこの後継者の座を妹に奪われたというようなことだ。
そして今日はその昔の男とやらの話である。
「……それで、婚約者も妹に取られたって訳さ。可哀想な話だろう?」
「にゃ」
あまりにも呆れて思わず鳴き声をあげてしまう。
何に呆れているかというと、この老女はまるで可哀想だなんて思っていないことだ。彼女は煙管を咥えて皮肉げな笑みを浮かべているのだから。
「ああ、それでなんでその男が茉莉を訪ねにきたのか気になるかい?」
ならないが。
「まあ十中八九、あの子を妾として囲おうとしているんだろうねえ。そうなるとあんたは捨てられちまうかもねぇ」
僕は壁の方へとそっぽを向いた。
婆はくけけ、と口元を歪めて笑い、煙管を盆に置いて立ち上がる。やっと飯の支度をしようと思ったらしい。
……ふむ。
僕は部屋に残る薄荷の匂いを嗅ぎながら考える。
まあ、捨てられる云々という老婆の戯言はどうでも良い。仮に捨てられたとして野良に戻るだけである。
それより、彼女は口に出さないが、茉莉も、桐花ちゃんなる妹も、そしてこの梅婆様とやらも霊力を有している。直接の祖母というわけではないようだが、一族にこんなに霊力を有する者がいることは尋常ではない。その華族の家というのは、どこか有力な寺社や陰陽師の末裔であり、その霊力を家門の力としているのは間違いあるまい。
珍しく女系の家であるようだが、それはともかくとしてなぜ姉が家を出て妹が継ぐのか。わずか数日の関係であるが、茉莉という女が愚かであるというようには見えない。彼女が体調を崩しやすいからか?
「ふんす」
僕は鼻を鳴らした。
彼女が体調を崩しているのは妹のせいなのに?
僕が拾われた翌日、その妹がやってきて、彼女はそこで少し立ち話をしていた。それで部屋に戻ってきた時には、霊力がごっそり抜かれていた。
そりゃあ体調を崩すのも当たり前というものだろう。
人間は僕たち妖と違って、術者であってもそこまで霊力というものをよく見えていないようだから分からないのかもしれないが、鈍すぎると呆れるところだ。なんといってもそれが僕の主人だというのだからな。
「ほれ、飯だよ」
梅婆様が僕に猫まんまを持ってくる。
僕はそれをがつがつと食らいながら、なるほど、そりゃあ妾として囲おうという話が出るはずだ。と納得もした。つまり、ていの良い霊力の蔵にしようということだろう。
昔の男とやらとどんな話をしているかは分からんが、妾になるというのであればそれを止めるくらいはしてやるべきかなあなどと考えていた。
そして食事を終えた頃だった。玄関の辺りから気配がする。
「ただいま戻りました」
どうやらその彼女が帰ってきたらしい。
きしり、と廊下を軋ませる音がして、障子を引いて入ってきた彼女を見上げて、僕はぎょっとした。
酷い顔だった。頬は青ざめ、目は泣いた跡を示すように腫れぼったく充血していた。口の上半分は横一文字に強張っているのに、下半分は無理して笑みを浮かべようとして弧を描いていた。それはなぜか僕に地平に沈まんとする上弦の月を思い起こさせた。
婆様は嗤う。
「ふん、茉莉やい」
「はい」
「なんて言われた?」
「妾になれと」
「それで?」
「訣れを告げてきました」
僕の心に安堵が広がる。
「その男を愛しているのかい?」
「愛していました」
ふん、と婆様は鼻を鳴らす。
「いい女の顔になったじゃないか」
「ありがとうございます」
そうか。この主人は、こんな無様に、笑うようにして泣いて前を向くのか。
僕は空になっている皿をぺろりと舐めた。
ξ˚⊿˚)ξ第三章終了ですわー。投稿時間遅れてすまぬ。
明日(というより今日)は投稿お休みして、また明後日から投稿続けます。
引き続きよろしくー。




