上弦の月は地平に嗤う。六
「なん……だと?」
「ありがたいお話ですが、お断りします。そう申し上げました」
よもや断られるなど思っていなかったのでしょう。唖然とした表情の誠二様に向け、私は深く頭を下げました。
「誠二様、桐花様のご厚意を無碍にして申し訳ございません」
「なぜだ。悪い提案ではなかったはずだ」
下げた頭の頭上で、誠二様が苦しげな声で問いかけられました。
私はゆっくりと頭をあげて、再び誠二様を正面から見つめます。
「誠二様、あるいは桐花様は、思い違いをされているのです」
「ふむ?」
「私自身、今気づいたのですけども。確かに私は霊力に伸び悩み、倉橋家を勘当されました」
「そうだね、だから手を差し伸べようと……」
私は誠二様の言葉を遮ります。
「だからなんだと言うのでしょう」
「……どういう意味だ?」
大きく息をついて吸います。丹田に力を込めて。
「それは確かに私の人生における躓きと言えるでしょう。ですが誠二様。五つの子供でも、躓いたら自分で立ち上がれるのです。私は人生をまだ何も失敗しておりませんし、挽回できないような状況に追い込まれた訳でもないということです」
妾という制度そのものを否定することはできません。
現実問題として、女性の立場というものは低い。そして特に子を抱えていると身動きが取れないというのはまごうことなき事実です。例えば戦で夫を失い、子が残された未亡人がいたとして、どうやって生きていけば良いのでしょう。親族や、余裕のある殿方の世話になるしかないではないですか。
それが健全な社会とはいえないにしろ、少なくとも今はそうなのです。
「自分で立ち上がれる。余計な世話はいらない。そう言いたいのか」
誠二様が仰います。その言い方には少々棘がありますが、それも全て飲み込みましょう。
「はい」
私は頷きました。
私が困窮し、躓き、疲れ果て、立ち上がれない。そんな時に手を差し伸べてくれたのであれば、ありがたくその手も取りましょう。ですが今の私はそうではないのですから。
声を掛けるのが早すぎる。何を焦っているのでしょうか。ふと、そんな言葉が頭に浮かびました。
確かに先ほど誠二様ご自身が仰ったように、今私を妾として囲ったとしても問題はない。経済的にも立場的にもそれはそうなのでしょう。
ですが、逆になぜ彼らが今私を囲う必要があるのです?
私は梅お婆さまの庇護下にあり、女学生という立場もあるのです。それを捨てさせてまで私を囲おうとする理由は何なのでしょうか。梅お婆さまから離したい? 学校を卒業させたくない?
そしてそれを望んでいるのは誠二様? 桐花ちゃん? あるいはまた別の思惑?
私は黙考し始めましたが、誠二様が眉間に皺を寄せて言葉を発せられ、思考は中断されました。
「倉橋家のご令嬢ともあろう者が、教員なんぞになるというのか」
「そこです」
「うん?」
「今、誠二様は教員なんぞと仰い、先ほども『師範学校なんか』と仰っていました。華族令嬢がそもそも仕事をするなどはしたないとお思いかもしれませんが、私はお国が『女学校ノ教員タルヘキ者』の育成を理念として掲げている学舎に通っているのですよ。それを否定なさいますか?」
誠二様はため息をつかれました。
「いや、失礼した」
そうでしょう、これを否定するのは国への否定になってしまう。自宅などならともかく、レストランで店員の控えている場所ではできないでしょう。
もちろん、未来についてはわかりません。私たちの学校の卒業生、桜蔭会といいますが、その会員の多くは教育やさらなる学問の道に進まれていますが、もちろん全てが教員となっている訳ではありません。
それに私の霊力です。もし万一、あまり期待はせぬようにしているのですが、このまま霊力が戻っていくのであれば、また別の道が開けるかもしれません。
倉橋家に戻ることは考えておりませんが、在野の術者となったり、国や寺社の雇われだって構いません。なんらかの形でこの力が役に立てればとも思うのです。
「……変わったな」
「家を勘当までされて、変われもしなければ愚かでしょう」
「そうか」
「はい」
誠二様は残った珈琲を飲み干されました。
「では断られたと桐花さんには伝えておく」
「はい」
「戻ろうか、送ろう」
誠二様は立ち上がり、私は誠二様を見上げます。
「私はここで。自分で帰りますわ」
そう言った時、誠二様の表情には無数の感情が浮かびました。
それは怒り、不快、悲しみ、私の願望かもしれませんが後悔。そしてその全てが表情から消え、彼は頷いて呟きました。
「そうか……そうだな」
誠二様はスーツの懐から財布を取り出すと、札を数枚取り出して、卓の上に置かれます。
「人力車を呼んでおく。これで帰るといい」
「ありがとうございます」
私は立ち上がり、すでに歩き始めた彼の背に深く頭を下げました。
「お達者で」
私たちの道はここで訣れたのでした。




