上弦の月は地平に嗤う。三
朝は先生がいらっしゃるまでそんな話をして、お昼休みには猫ちゃんを拾って飼い始めたのだという話もしました。みなさん可愛いものはお好きですからまたきゃあきゃあと話は盛り上がって、そして放課後。
猫のヒスイさんは落ち着いたかしこさんですし、梅お婆さまの家にも慣れた……というか、ずっとここに住んでいるかのような我が物顔です。
だからそこまで帰りを急ぐ必要もありません。どこか立ち寄るということもないですが、お喋りしながら帰りましょうということに。そうして千代ちゃんたちと校舎を出て、だらだらとした坂をくだり、お茶の水橋に差し掛かったところでした。
「また茉莉さんが三馬鹿に絡まれたりしないかしら?」
「私たちもいるんだからやめてよね」
「流石に今日はいないんじゃないでしょうか」
「でも絡まれるとまた謎の書生さんが現れるかも」
「茉莉、絡まれてきて!」
無茶を言われます。
もちろん今日は、先日の不良学生たちに絡まれることはありませんでした。ですが、すんなりと家に帰れる訳ではなかったのです。
「久しぶりだね。茉莉花」
そう、かつての名で呼び止められました。私たちの前には二十歳前の若い男性の姿。
「……誠二様」
三つ揃えの灰色のスーツをお召しになり、ポケットからは懐中時計の金鎖。手にはまだら模様の細身の杖が握られ、茶色がかった明るめの黒髪の上には中折れ帽がのっています。
殿方の服装、それも洋装には詳しくありませんが、それでも明らかに格式を感じさせる、青年実業家といった風貌でした。
思わぬ遭遇に身を固くした私の背を、千代ちゃんが優しく撫でます。
「どなたかしら?」
私ははっとして答えました。
「こちらは九条誠二さん……。誠二さん、こちらは師範学校での私の友人たちです」
誠二さんの名を言った後に、少し言い淀んでしまいました。婚約者とは紹介できませんし、また元婚約者とも言い難い。それは両家の不名誉である可能性があるためです。
「九条家の……初めまして。茉莉さんとはどういうご関係か伺っても?」
「茉莉、さんとは家同士でのつきあいがあってね。茉莉、時間をもらえるかい?」
茉莉花と言いかけたのでしょう、少し言葉が不自然に途切れました。
千代ちゃんがこちらに視線をやり、私は頷きを返します。彼女は軽く肩を竦めて、軽やかにおっしゃいます。
「そう、じゃあ私たちはここでさようならね。末莉さんごきげんよう」
「ええ、ごきげんよう」
「何があったか教えてねー」
「また明日」
皆さんがそれぞれ私に声をかけたり、誠二さんをまじまじと見つめたりしながらこの場を後にしました。
「……車を待たせてある。食事でもしながら話そう」
「その、梅お婆さまに」
「ああ、連絡はしておく」
自動車の中では、元気にしていたか、程度の言葉を交わしただけで会話は弾みません。
車は北へ、湯島の天神様を左に不忍池へと辿り着きます。池のほとり、東照宮のそばのレストランに停まりました。
私は初めて来ますが、誠二様は慣れた様子で店員と話されます。
「何か食べたいものは?」
「すいません、こういう場所は不慣れで……」
「お薦めを頼んでおこう。お酒は?」
私は首を横に振ります。
料理を頼み、店員が一礼して席を離れたところで、私の向かいに座る誠二様はおもむろに深く頭を下げられました。
「婚約の件、すまなかった」
「いえ、誠二様のせいではありません。その、私が……至らなかったせいで」
婚約とは両家の思惑と合意によるものであり、婚約する本人同士の意向によるものではありません。もちろん、相性などが影響しないではないですが、歴史ある家や華族ともなるとやはり家長の意見で決まるもの。
「そうなのかもしれない。だが、直接謝罪する機会が欲しかったんだ。……その、止められていたから」
両家のご当主様たちから止められたということでしょう。ではなぜ今いらしたかと言えば、桐花ちゃんとお母様……六花様が、御役目で東京を離れているためなのでしょうね。
私が考え、黙っていると誠二様は言葉を続けます。
「自分は、倉橋の御役目について、言葉では聞いているけど、実感として分かっているわけではない」
「はい」
誠二様は霊力を有してはおりませんので、それはその通りでしょう。
「だから茉莉花……茉莉さんがあれだけ一所懸命に努力していたのに、と思ってしまう」
「護国の御役目は実力によってなされるもの。私より優れる桐花様が家を継ぐのは当然であり、……誠二様がその婚約者となられるのもまたそうあるべきです」
「だが……」
私は深く頭を下げます。先ほどの誠二様よりもさらに深く。
「私のために心を砕いていただきありがとうございます。ですが、これからは桐花様をお大事になさってください」
「そうか」
「はい」
誠二様は優しく笑みを浮かべられました。私もぎこちないかもしれませんが、笑みを返します。言葉の途切れたところで給仕がやってきて、食事を供し始めました。
ξ˚⊿˚)ξ精養軒。




