上弦の月は地平に嗤う。一
熱が出て、朦朧とした意識の中で目が覚めてはまた寝て。そんな日が数日続いたある時、畳の上をカサカサと動くものの音で目を覚ましました。
黒い艶やかな毛並みが目に入ります。猫ちゃんのヒスイですね。最近は階下、梅お婆さまのところにいたのですが、上がってきてしまったのでしょう。彼は私の枕元で、海栗のような黒くて丸くてとげとげとした小さな妖を、前足でころころと畳の上で転がしています。カサカサというのはその音であるようでした。
猫ちゃんというものは自分より小さくて動くものに興味を示すのは知っています。ネズミを追ったり、毛糸玉を転がしたりと。
「ヒスイ、あぶないわよ」
海栗のようなそれはトゲだらけに見えますし、隠の気が集まって形成されるものですから。
ですが、私のその言葉にヒスイは一鳴きすることで答えます。
「にゃ」
それは、私の言葉に呆れるような響きを持っていました。
「……ああ、そうなのね。ありがと」
ヒスイは遊んでいるのではなくて、海栗のようなそれを私のそばから遠ざけてくれていたのでしょう。
ヒスイは自分のねぐらとした籐籠の中にするりと入ると、尻尾だけ出してぺちぺちと海栗を叩いています。
そういえば、明神様の境内で猫ちゃんを拾った時、その尾が二股に分かれているのが見えたのでした。彼はいわゆる化け猫や猫又と言われる類の妖なのです。先ほどの鳴き声は、こんな低位の妖に害されるはずがないだろうという抗議だったのかもしれませんね。
「くわぁ」
ヒスイはまるで液体であるかのように、とぷんと籠に収まって機嫌良さげに欠伸をします。
こうしていると普通の黒猫に見えます。いえ、そうとしか見えません。普通の猫ではあり得ない賢さも見せますが、そもそも猫とは総じて人の言葉をわかっているような節がありますからね。
「……あ」
今更、ふと気づきます。ここ数日、見えなくなっていた海栗のような妖が見えるようになっているではありませんか。つまりそれは、私の霊力が戻っているということであり、体調も治ってきていることに他なりません。
実際、その日のうちにしゃっきりして、夕方には数日ぶりにお婆さまと一緒に食事もいただきましたし、お風呂にも入ってすっきりしました。翌日には学校に行っていいとお婆さまからお墨付きもいただけたのです。
さて、数日ぶりの師範学校です。
路面電車と並んでお茶の水橋を渡り、神田川沿いの相生坂をゆるやかに登っていけば、師範学校にたどり着きます。
病み上がりの登校で、普段より歩くのがゆっくりだったでしょうか。もちろん遅刻などはいたしてませんが、殆どの生徒たちが教室の席についていたのです。
「ご機嫌よう、みなさん」
「茉莉さん!」
「まあ、茉莉さんがいらしたわ!」
級友たちが私に一斉に視線を向けます。
あら、みなさん心配してくれて、ありがたい話です……と思っていたのですが。
千代さんをはじめ数人のお友達が、席についた私を取り囲みました。どうやら様子が違います。
「見ましてよ、茉莉さん」
「聞きましてよ、茉莉さん」
「さあ、話すのです、茉莉さん」
「な、なにをでしょう?」
皆がきらきらとした、ですが強く圧を感じる視線をこちらに向けてきて、思わずたじろぎました。
千代さんが私に問いかけます。
「お休みになられる前日、何やら用事があるとかで早くに帰られたでしょう?」
「ええ」
「その用がなんであったのかも気になるのだけど、今はその話ではなくってよ」
んん? と私は首を傾げます。ではなんなのでしょうか。
千代さんの隣にいた、文子さんが興奮したように身を乗り出します。
「私、見たのです。急ぎ帰宅される茉莉さんが三馬鹿に絡まれるのを!」
「三馬鹿」
酷いあだ名です。いえ、あの日のことを思えば誰を指しているのかはわかりますけども。
「本人たちは本郷の三羽烏なんて名乗ってるのだけどね」
「まあ」
千代さんが補足します。
三羽烏とは各界で優れた三名を称する言葉です。例えば首相の桂太郎閣下は、帝国陸軍にいらした頃、兒玉源太郎閣下らと共に帝国陸軍三羽烏と称されたのが有名でしょうか。
それを自称するとは……。
「だけど、あれ学校留年してるのよ。だからみんな三馬鹿って呼んでるわ」
「あー……」
「ま、それはいいのよ。話をお続けになって」
千代さんがひらひらと手を振ると、再び文子さんが身を乗り出します。
「前を行く茉莉さんが、お茶の水橋で三馬鹿に絡まれていたのです。私はまだ坂を降りている途中だったので、学校に引き返して用務員の方を連れてこようとしたのです」
うちの師範学校の用務員さんは、もう還暦を過ぎたお爺さん用務員なのですが、戊辰戦争にも西南戦争にも従軍した凄腕の剣客であったと噂に聞きます。
私がそんなことを考えていると、文子さんは、ばん、と音を立てて卓を叩きました。
「しかしその時、どこからともなく現れた白皙の書生さんが三馬鹿の前に立ち塞がったのです!」
周囲でこちらの様子をうかがっている級友たちが、おお、と感嘆の声を上げました。すごい、講談みたい。
ξ˚⊿˚)ξ注:斎藤一




