上弦の月は地平に嗤う。桐花・後
「うおおおおぉぉぉぅ」
正面からこちらに向かってくる鬼が唸るように吼えて、その声が世界を揺らす。空気だけじゃなくて石畳まで揺れて、足の裏までびりびりと震えている。
その声や表情に正気や知性といったものは感じられないわ。
「ひえっ……!」
結界を張っている者たちがその声にか巨体にか、あるいは手にした大きな金棒に怯えた声を出すけど……。
「ふぅん、雑魚ね」
周囲の者から正気かとでもいう視線が向けられるわ。でもね、知性なき獣にやられるほど倉橋の術者は無能じゃないの。
千年近くの永きに渡って祀られていた鬼なら、もっと知性があるはずよ。なぜそれを失い荒ぶるのか。まあ、理由はあるんでしょうけど、そんなことに興味はないわ。私のこの力は調査のためではなく討伐のために振るわれるのだから。
私は右の人差し指と中指の間に呪符を挟んで告げる。
「とっとと終わらせるわよ。騰蛇! 巳の方角より来たりて、我が敵を滅せよ! 急急如律令!」
周囲を照らす篝火の焔が、消えたわけでもないのに、ふ、と暗くなる。焔はそのままに、その光量のみが半分に減じているの。
「久しぶりの呼び出しかい?」
私の耳朶を甘く低い声が打つ。
昏く赤い長髪が私の肩にはらりと落ちた。私の背後から長身の男が現れる。野生的な顔立ちに引き締まった身体。赤毛といっても異国人というわけではないわ。そもそも美形の人型であるといっても、これを人と思う者はいないでしょう。霊力が、炎がその身から揺らめいているのが明らかなのだから。
「ええ、アレを討ちなさい」
「鬼か」
ふぅん、と騰蛇は鼻を鳴らして、私の身体を背後から抱く。
「名のある鬼に見えるけど」
「知らないわ。それに知っていたとしてもあの様子じゃね」
「なるほどね」
彼の目には鬼の神格の高さが見えるのでしょう。祀られていたとはそういうこと。
彼は私の身体から手を離し、すり抜けるようにして私の前に背を向けて鬼と相対した。
「……哀れなものだ」
その際に、そう呟いた声が私の耳に残った。
鬼が騰蛇に視線を据えた。明らかな強敵であるとわかるのでしょうね。鬼は吼え、金棒を振りあげる。
私は短く叫ぶ。
「火剋金の理!」
「はいよ」
やる気のなさそうな返事。
だけど騰蛇が鬼の持つ金棒を睨みつければ、鍛冶屋が鉄を打つ時のように金棒が赤熱して鈍く光を放つ。当然そんなものを手にしていられるはずがないわよね。鬼は汚い悲鳴をあげながら金棒を取り落としたわ。
金棒は溶け落ち、石畳の上で形を崩していく。
「なんという熱量……!」
「あれが晴明様の十二天将の力」
「すばらしいわ、桐花さん」
有象無象が騰蛇の力に畏れ、賞賛し、お母様が歓喜の声を上げる。
当然よね。倉橋家の祖たる安倍晴明の残された、最高位の十二柱の式神。その一柱ですもの。これを使役できる術者は数代に一人くらいしかいないんだから。
鬼はその相貌に怒りを示すと、こちらに駆け寄って拳を振るう。六尺ほどの身の丈がある騰蛇が、子供に思えるほどの巨体。その拳が振り切られれば、騰蛇だけじゃなくて、私まで届き、掠めただけでも殺されてしまうるでしょうね。
「無駄よ」
私は懐から紙で作られた人型、すなわち形代を宙に撒く。
鬼の拳は宙に浮いた形代に当たり、紙を殴ったとは思えない轟音を響かせて、そこで止まる。鬼が再度拳を振るえば、形代に込められた霊力が青い火花を散らして拳を止めるわ。そしてその度に紙の端から焼け焦げたように黒くなって形代が崩れていく。
もちろんこのまま殴られ続ければ、いつかは呪をこえて私にその拳が届くだろうけど。
「ちょっと、なに見てんのよ。やりなさい」
「はいはい」
この場には騰蛇がいるのですもの。
だけど騰蛇は振り返ると、にやりと笑みを浮かべて手を差し出した。
「先払いだ」
「……がめつい男は嫌われるわよ」
私は彼の差し出した手の上に自分のそれを置く。男性の大きな、だけどどこかひやりとした、炎の化身とは思えない掌に。
「ぐっ……」
触れ合う手を通じて、騰蛇を召喚した時や形代の術を使用した時とは比べものにならないほどの勢いで私の霊力が吸い上げられていく。
私の霊力がほぼ枯渇し、私の中にあるもう一つの力、お姉ちゃんの霊力まで。
「ふふ、甘露、甘露」
恍惚とした表情を浮かべてそう言う騰蛇の髪は明るく燃え上がっていた。
「もういいでしょ。早くして」
私は倒れそうになるのをこらえながら、騰蛇の手を払う。
私の霊力が尽きたと同時に形代の護りも消えた。振るわれる鬼の拳。だけどそれがこちらに届くことはない。
鬼の腕に巨大な蛇の尾がからみつき、動きを封じているから。隠の焔の蛇、それが彼の本性。鬼がどれほど力を込めてもそれは動かず、千切れもしない。
騰蛇は無造作な足取りで鬼に歩み寄ると、その剥き出しの胸に手を触れた。
「いずこにてか名のある鬼よ、ではさらばだ」
火柱が上がる。天にまで届かんとする葬送の火柱。
神職たちは畏敬にか膝をついて言葉もなくそれを見つめる。
そして火柱が消えた時、そこには鬼の姿も、鬼が撒き散らしていた瘴気の欠片も残っていなかった。
「じゃあな、桐花。また呼べよ」
「はいはい、ご苦労さん」
騰蛇も姿を消す。私は笑いそうになる膝をこらえてまっすぐ立ち、振り返って言う。
「ね、雑魚だったでしょ」
あー、だるっ。しばらく宿でごろごろしないとやってられないわ。それで、帰ったらまたお姉ちゃんを吸わないとね。
ξ˚⊿˚)ξんではまた明後日〜。




