01 一ノ谷のあとに
土肥実平、吉備三国で平家に敗れる。
源頼朝は深刻な表情を、より深刻なものにして言った。
土肥実平は頼朝の股肱の臣であり、石橋山の戦いに敗れた頼朝を匿い、共に鵐の窟に隠れ逃れた仲だ。
だからこそ頼朝から、一ノ谷の戦いのあとの最前線――備前、備中、備後つまり吉備三国を任せられていた。
その実平が負けた。
これが何を意味するのか、頼朝の前に座した範頼には、痛いほどわかった。
「平家ですか」
「そうだ」
一ノ谷の戦い。
それにより、京まで迫る勢いだった平家は、霞んだ。退いた。
その戦いは源範頼が大軍をもって、平知盛と戦い、その隙に義経が裏から襲う、という戦いだった。
「大軍を以て当たり、その上で、騎馬で駆け、攻める」
つまり兵書でいう双頭の蛇をしかけられ、平家は這う這うの体で逃げた。
これで平家は鳴りを潜め、争いもしばらく止まろう。
誰もがそう思っていた。
が。
「平家はそうはいかぬようだ」
頼朝は厳然と言う。
現実というものを深刻に、より深刻に見るのが頼朝だ。
その頼朝が、ここまでの表情を見せるということは──
「まずい、ということですか」
「そうだ」
現状、鎌倉は一ノ谷の戦いに用いた三万騎を東国に戻している。
だからこうして、その時の大将軍だった範頼がここにいる。
では、京はどうしているかというと──
「九郎しかいない」
頼朝は苦虫を噛み潰したような顔をした。
まず、京――というか西国には米がない。
だから範頼と三万騎を東国に戻した。
その虚を突かれた。
さらに、京に残された源九郎義経。
これは、圭角のある男である。
たとえば、宇治川の戦い――木曽義仲との戦いは、範頼が北からゆっくりと迫る作戦だった。
それを察した義経が、京への兵糧運搬の任を受けていたにもかかわらず、京武者(京周辺の軍事貴族)を集め、南から――宇治川から京を奇襲していた。
「宇治川は、たまたま義仲の兵が摂津の叔父上(源行家)討伐に割かれていたから、よかったもの」
「いえ、それを知っての九郎の攻め」
「…………」
範頼は、知っていた。
義経は野伏の伊勢義盛という、間者ができる異能を召し抱えていることを。
「その九郎しか、京にいない」
含みのある言い方だった。
そういう風に、情報収集はできる、という意味がこもっていた。
同時に、情報収集しかできない、という意味も含まれていた。
「京に残されたのは、九郎に徒党がいないため。従う京武者たちは、それぞれの自領が近い。ゆえに、兵糧が賄える」
たとえば、大掾兼衡、信衡、兼時という兄弟の京武者が義経の下にいる。彼らの領地は伊勢である。
現に、彼ら兄弟の父、大掾信兼は伊勢の滝野に城をかまえている。
おそらくこういうところを期待して、義経は京武者たちを募り、義仲と戦ったのであろう。
「そうして今は、京の守りよ。九郎もうまくやりよったわ」
褒めているのかいないのかわからない。
そういう頼朝の発言に、範頼は眩暈がしそうだった。
この兄は、いったい何が言いたいのか。
そもそも、吉備の土肥実平が危ない、という話ではなかったのか。
あるいは、義経が危ないと。
「九郎は危ない。このままだと平家討伐に出陣しかねない」
「然までに性急でしょうか。先からの兄上の言葉から判ずるに、むしろ調べを重ねてから動くかと」
「話が過ぎたな」
突如、切るように頼朝は言った。
義経のことは、話したいは話したいが、気に入らないからやめようという心情なのか。
「平家についてだ」
当然のように話を変える。
あたかも、上に立つ者であるかのように。
否、実際に上に立つ者なのだ。
この頼朝は、この鎌倉で――東国で、誰よりも上に立つ者。
そうだということを、認めさせようとしている。
「どう思う」
その問いは、もう答えを知っている問いだ。
しかし、どう答えるか、を見ている問いだ。
「実平に、どれだけ兵を失うたか、どれだけ兵が要るか、使いを出せば」
いかにも常識的な答えだった。
そもそも、頼朝が最初に言い出したことは、吉備のことである。
そして、京の義経を気にしているなら、なおのことそこから固めるべきだ。
「ほんとうにそうか」
嫌味を通り越して寸鉄のような鋭さだった。
聞いておいて、それはないだろうと思う。
誰ぞ、その「要る兵」を率いさせることになるとは思うが、実平を救い、義経を抑えるには、それが最善だと考えて答えたのだ。
「蒲冠者」
ここではじめて、頼朝は範頼を呼んだ。
通り名で。
真名で呼ぶことは、上に立つ者なら当然していいことだが、そうせずに通り名で呼ぶことは、敬意を抱いている証──しかしこの場合、範頼は隔意を感じた。
「そなたが実平だとして、援兵が来たら、それで満足か」
「満足です」
そう答えられたら、どんなに善いだろう。
だが、そうではないのだ。
頼朝の目がそう言っている。
そして、どのような答えを求めているか、言っている。
ああ、そうか。
心中、範頼はひとりごちた。
最初から思っていたが、どうやら、求められていた結論はそういうことか。
この兄──頼朝は、平家の動向をそう見ていたのか。
「平家はその奉ずるみかど(安徳天皇)を、屋島に置いています」
「元々、屋島から一ノ谷と移って来た。だから帰った……と見るのが自然」
自然だと思うと言っているだけで、それが正しいとは言っていない。
範頼は、真剣で切りつけられているような緊張感を味わった。
そう、みかど自体は、屋島に帰った。
お守りとして平家棟梁、平宗盛までいる。
「が、平家のいくさを動かしているのは、宗盛にあらず」
頼朝が言いたいのは、一ノ谷において、範頼が戦った相手のことである。
「さよう。宗盛の弟、知盛こそ、平家のいくさの要。その要がどこにいるかというと……」
そこまで言って、範頼はため息をついた。
これで、苦難の道が開けてしまったか、と。
「長門の彦島。ここにいて、鎮西(九州)を押さえてござる。鎮西こそ、平家の真のねらい」




