60 BECAUSE YOU ALWAYS STAND BY ME(2)
「これまでの経緯を聞いた感じだと、実の母親にとっての俺は、親父に引き取られてからどうでもよくなったわけじゃなくて、もともと要らない子どもだったのかもって思ったりする。けど、子どもを要る子どもと要らない子どもに分けて育てる親ってどうなんだろうな」
「ショックだった?」
あたしの言葉に、司くんは全然全く、って答えて首を振った。
「でもそれもタイミングかなーとは思う。聞いたのがいまだったから。もしも必死で親父に反抗してた頃に聞いたら、ネガティブな方に振り切れちまってたかもな。てかちづちゃんホントまじ女神。親父と俺の救世主。ちづちゃんいなかったら俺達親子はきっと路頭に迷ってた」
そんな風に言うときの司くんは笑顔だったんだけど、そのあと真面目な顔になって、もう少しだけパパとの会話について触れる。
「親父はさ、自分の子どもの頃のことは思い出すことさえ抵抗があるって言ってたんだけどさ。なんか中学になる頃の俺がだんだん生意気になってきたのを見て、理不尽だったけどめちゃくちゃ腹が立ってたんだって。あの頃の感情は間違いなく八つ当たりだったって今ならわかるって言われた」
菅生さん、自分が決して与えてもらうことができなかったものを全部与えて司くんを大事に育てようと思っていたのに、いざ司くんが生意気になって言いたいことを言うようになったり、自分の願いだとかを言葉にして菅生さんに歯向かってきたりするのを見て、コイツは本当に恩知らずだ、どれほどのものを俺が犠牲にしてここまでやってきたのかを全然わかってない、って思えてはらわたが煮えくり返ってしょうがなかったんだって。
だけど本当に司くんの自我を潰したいわけじゃなかったって。
「親父は今でも、どんなに社会的に成功して他の人から一目置かれる立場になっても、たくさんの人を助けて感謝されても、どうしても埋められない自己否定感みたいなものが自分の内側に巣食っていて、ともすればそれに飲まれそうになるんだって言ってた。子どものころに親に踏みにじられて育ったのは自分が悪いわけじゃないって理屈ではわかっていても、どうしても自分の本質は生きる価値なんかない出来損ないの惨めな存在だって感じてしまうし、そういう思考から逃れることができないでいるんだって」
一度司くんは目を閉じて、それからゆっくりと低い声で言い加える。
「だから──俺をそんな風に、結果的に自分と同じように歪めずに済んで本当によかったと思ってるって言われた」
ああ、なんだか菅生さんの言葉が重い。司くんが自分みたいに自己否定感に囚われてがんじがらめにならなかったことを喜びながらも、どこかで嫉妬して八つ当たりして、どこかで恨んだり憎んだりしてしまうっていう複雑で矛盾する気持ち。
以前に司くんとパパの喧嘩の経緯を聞いた印象だと、菅生さんは司くんにお医者さんになってほしいと思っていたみたいだし、愛情と裏腹の執着心、みたいなものが原因かなあって思ってた。だから司くんが自分と全然別の人間だってことが感覚的に受け入れがたくて司くんのことを押さえつけようとしているのかって印象だったんだけど、そんなに単純なものでもなかったみたい。
自分のことを価値のあるものだとどうしても思えないのが原因で、子どものことを大切だと思いたいのに大事にしきれないってことだよね。いやそれでも大事に思っていることはわかるよ。やったことは駄目だけどね。
「ちづちゃんには話してねーのって聞いたらさ、親父ときたら、そんなみっともない真似できるかって言うの。そんな弱みを見せるような話をして、帰ってきてくれって頼みこんでるみたいに受け取られるのが嫌だっていうわけ。だから帰ってきてくれって言えよって、俺、説得してさ。ちづちゃん絶対待ってるから、親父にはちづちゃんの気持ちがわからないのかもしれないけど、傍からみたらまるわかりじゃんって言ってさ」
菅生さんは最初渋っていたけど、なんとか千鶴さんと話し合う気になってくれたんだって司くんは言った。菅生さんと話し合った千鶴さん、来年度までの初期研修が終わったら、菅生さんのところに戻る気になったみたいだって。
そこから司くんの話は、千鶴さんから聞いた内容に移る。
千鶴さん、菅生さんに対してはもう最初から、ほぼ一目惚れだったんだって。司くんのパパが小さな子どもだった司くんを連れて、千鶴さんのママがやっていた心理療法クリニックにやってくるようになってから、千鶴さんはなんとか話しかけるチャンスをずっと狙ってたそう。
診療帰りと思しき姿を駅で見かけて千鶴さんが話しかけたとき、菅生さんはちょうど美咲さんに面会を断られて司くんの治療の指針もわからなくなって途方にくれていてたときで、それで菅生さんガードが甘くなってたのか、世話話みたいにそのときの状況をちょっと話してくれたんだって。
千鶴さんはやっと会話できるきっかけができて、ここぞとばかりにアタックを続けて、司くんの病気の回復が見通しが全く立たなくなっててもうボロボロだった菅生さん、結構簡単に陥落したんだって。
「だからガチで惚れてるのはずっとあたしのほうなんだけどね。パパは絶対気づいてないよね。結構ニブいからさ、あの人」
そこで司くん、気になっていたことをもう一度千鶴さんに聞いた。本当に一度も殴られたことはなかったのかって。そしたら千鶴さんは言ったんだって。
「ないよ。けどモラハラはあったね」
菅生さん、つきあい始めの頃に、なにかある度に千鶴さんのことを学がない、ものを知らないって見下してきたんだって。
「そりゃ、確かにあたしはもの知らずだったかもしれないよ? けど、それだけじゃなくてさ、いつだったかあたしが返信ハガキの宛名のとこの『行』を『様』に直さなかったとかそんな理由で、美咲さんの方が教養があったなんて言うもんだからさ。ねえ、元妻と比べるなんて無神経にもほどがあると思わない? あたし、悔しくって悔しくて、司の勉強見てやりながら自分もずっと勉強してたんだよね。パパと同じ医学部受かったら見返せるかもと思ってさ。美咲さんは薬学部出身って聞いたから、これはもう絶対医学部に受かっちゃると思ってさ」
「えっ、ちづちゃんの進学ってそういう動機だったの?」
「うん、勉強し始めた最初の動機はそう。けど大学受かったとき、パパってば自分のことのようにめちゃくちゃ喜んでくれて、見返すとかぎゃふんと言わせるとか、全然そんな雰囲気じゃなくなっちまって。受かったんだから当然通うんだよな、とか言ってくるんだよ。あたし、ずいぶん歳食ってるしいまさら大学生やるのもおかしいんじゃないかって言ったんだけど、国立の医学科なんて多浪生ゴロゴロいるからまだ20代半ばぐらいじゃ絶対浮かないからって断言されてさ。大喜びで入学金とか授業料とかいそいそと用意して払ってくれてさ。在学中にあたしと離婚したあともさ、もう関係ないからいいのにって言ったら、自分の子どもでもない司を6年以上もなんの見返りも求めずに育ててくれたんだからそれぐらい当然のお返しだ、なんて言うの。あたしそのとき、この人心底バカなんじゃないかって、なんかもう、それしか思わなかったね」
なんだ結局のろけかよ、って司くん、聞いててあほらしくなったって言った。
この話とは関係ないけど、司くんの千鶴さんに対する最初のイメージは、とにかく自分に勉強を教えてくれる人っていう部分がすごく大きくて、だから司くんは千鶴さんのことを、もと家庭教師の一人だとずっと思ってたって言ってた。小学校低学年の頃の司くんには家庭教師が複数いたらしい。当時の司くんは、その中で千鶴さんのことがダントツ一位で好きだったんだって。
子どもの頃に両親に虐待されていたことを菅生さんがこれまでずっと千鶴さんに打ち明けることができなかったのは、美咲さんとうまくいかなくなってしまったことも原因の一つだった。最初に結婚したときに美咲さんに打ち明けたら、ことあるごとにそのことを引き合いに出されて悪しざまに罵られてしまったことがあったせいで、話そうとしてもどうしても口が動かなかった。千鶴さんは菅生さんの身体の傷跡を見て大体の事情は察してたけど、言いたくないことを無理に聞き出すつもりにもなれなくて、ずっとそのままにしていたそう。
けど司くんを殴り飛ばす菅生さんを見ながら、この人はもっとずっとひどい目に遭ってきてたんだからって内心思ってしまって、自分の気持ちが100パーセント菅生さん寄りなのに愕然として、これじゃケジメがつかないって思って、離婚届を出したんだって。菅生さんがこれまでひどい目に遭ってきたっぽいことと、この人がいま自分の子どもを殴って暴れてることは分けて考えなきゃ駄目だって思ったんだって。それと、この状態を許したら、なし崩しでずるずるといびつな家庭環境を認めてしまうことになるんじゃないかと思って、それだけは絶対止めなきゃって思ったんだって。
籍を抜く前も抜いた後も、千鶴さんは自分の気持ちを洗いざらい菅生さんに告げて、たくさんたくさん話し合ってきたけど、菅生さんはなんかどっかで諦めてしまってて、多分ずっとうまく伝わってなかったと思うって言ってた。
「今回どういった心境の変化?ってパパに聞いたらさ、司と話をしたのもきっかけではあるけど、梓ちゃんと再会したことでこれまでのことを思い返してみて、ばらばらだったいろんなことが全部つながって見えたから、って言われた。パパは自分がまともな家庭で育ってこなかったから、人と接したときにお互いに尊重し合える相手か、その人が相手をないがしろにしても平気でいるような人なのか、どうやって判断したらよいのかわからなかったんだって。自分には人を見る目が全然ないからって」
だけど菅生さんは、司くんが菅生さんみたいに埋められない空虚感を抱えて苦しむことのない大人に育ったのを見て、少なくとも千鶴さんには自分も司もないがしろにされたことはなかったんだって腑に落ちたんだって。
「なんだよ、いまごろ? って思ったけどさ。でも、いまちょっとはあたしのこともう一回信じようって思ってもらえてるのかなって。だったらチャンスじゃん。だからもう専門医研修は受けずに早いとこパパのところに戻って仕切り直しかなあって。いまのいま戻れないのがもどかしいけど」
なんでも2年の初期研修さえ修了してしまえば、とりあえず一人前の医師としてやっていくことはできるようになるらしい。そのあと3年から5年ぐらい専門医研修を受ける人もいるけど、とりあえずは菅生さんとの再構築を優先しようと千鶴さんは思ったんだって。
菅生さんはもいまでも実の母親のことを考えるだけで吐き気がして動機がとまらなくて冷や汗がでてきて倒れそうになるそうだ。気持ちが悪くて気持ちが悪くて、とてもじゃないけれども同じ空気を吸ってられないぐらい、おぞましいものとしか思えなくて。
父親に対しても怒りはあるけど、理由はわからないけれども母親に対する憎悪の方がもっと大きいんだって。父親のことは凶暴な鬼とか猛獣とか、そういった別の生き物のように思えていて、母親の方がどこか人間っぽい顔をしてる分、余計許せなく感じてしまうのかもしれないって言ってたそう。
お母さんから直接暴力を振るわれたことはないけれども、当たり前のように暴力の矢面に立たせて自分は後ろに隠れて罪を着せたり、それとなくお父さんの怒りの矛先がこちらに向かうように仕向けたりを繰り返しながらも、父親のいないところではべたべた甘えてきたりスキンシップを取ろうとしてくるのがとてもうっとうしくて、子どものころからずっと大嫌いだったって。
菅生さんからいろんな事情を含めたこれまでの経緯を打ち明けられた千鶴さんは、菅生さんのお母さんと菅生さんを会わせる気は金輪際ないからねって再度念押ししたそうです。これまでも何度か母親からの連絡はあって、菅生さんに相談する度、菅生さんが拒絶するので、会わせてくれっていうのを断ってきてたんだけどね。
「向こうも年を取って気が弱くなってきているから連絡を取りたがっているみたいなんだけど、単純だけど、あたしにとって彼らは敵だからさ」
千鶴さんはそんな風に言ってたって。
「あたしはパパと一緒になった時から決めているの。あたしの両手でそんなにたくさんのものが守れるわけじゃないから、パパと司の2人だけを、自分ができる精一杯抱えてやっていこうって。それがいまは梓ちゃんとの3人に増えたけどね。無駄に増やす気はないんだ。
もしかしたらパパのお母さんにも、どこかで出会いがあって救いが訪れるのかもしれない。このままずっと、そんなことは起こらないのかもしれない。美咲さんも、どこかで救われるのかもしれないし、そうでないのかもしれない。いまの美咲さんの状況に関しては本当はパパの側にも責任の一端はあると思うけど、それはもうパパにもあたしにもどうにもできないことだもの。あたしのできることなんてたかが知れてるからね。その人たちはほかのだれかに託すしかないと思ってる。あたしはあたしの大事な人たちだけを守るので手一杯だから」
単純と言えば確かに単純なのかもしれない。でもその千鶴さんのストレートさに、菅生さんは救われたんじゃないかとも思う。敵味方に分けてしまうその考え方には賛同できないって人もいるかもしれないけど、あたしはその潔さをカッコイイと思ってしまった。
ちなみにだけど千鶴さん、実の両親とはとっくのとうに和解しているそうです。DV歴のある菅生さんと何とかしてうまくつきあっていくハウツーみたいなものはないかって相談して、だけどそんなものはないって言われたんだって。ただ、DVをはたらく人って相手がどこまでの理不尽を許してくれるか無意識で測っているところがあるから、線引きはこちらで決める必要があるってアドバイスされたんだって。
きょうはあたしたち、図書館の喫茶コーナーの隅っこの小さな丸テーブルをゲットできたから、くつろいで話ができた。
一通り話し終わった司くんは、自販機でペットボトルのミルクティーを買って持ってきてくれる。裕希くんと一緒に宇都宮に行った日に、SAであたしが飲んでたのと同じ銘柄のものだった。よく見てるよね。
「話聞いてくれてサンキュ。ささやかだけど、これお礼」
「いやいや、話聞いたぐらいでもらえないよ」
百円玉を出そうとするあたしに、いいから飲んでよって司くんはペットボトルを押しつけてくる。
結局お礼を言って受け取った。
「ねえ司くん、いまのは梓は知らない話だよね?」
「多分? 親父はアズちゃんには知られたくないんじゃないかな。アズちゃんに対してはなんかカッコつけていたいみたいに見えるし。これまで親父がしてきたことを考えたら、アズちゃんにとっても今更だと思うんだけどさ。けど、むしろ俺は、親父が俺に対してもそんな話をしてくるなんて思ってもなかった」
梓には済まなかった、って言葉に出して謝罪をした菅生さんだけど、司くんに対してはそういった類いの言葉はない。ないけど、自分の生い立ちの話をしたことは、ある意味贖罪の意図があってのことだったのかももしれない。
「司くんのパパの生い立ちとか、あたしが聞いていい話だったとも思えないんだけど」
「うん。ごめん。なんか自分一人の胸の中に収めておくのがキツくてさ。でもこんなの赤の他人にも言えないし。今回莫さんにも話せないと思ってしまったんだ。莫さんは親父とそこそこ交流があるみたいだから、親父は莫さんに知られるのは嫌かもって何となく思っちまって」
「まあ、あたしは司くんたちのパパとは直接なんも関係ないものね」
「それとさ、なんかやっぱり俺にとって鞠乃ちゃんはものすごい話がしやすい相手なんだよ。すごいスムースに内容把握してくれるし、とんちんかんな返しもないし、話しててすごい安心感があるの」
そうかな? あたしはそんなに頭が回る方じゃないし、とんちんかんな返しもしてると思うんだけどね。それでも安心して話せるって言ってもらえるのは嬉しいかな。
「けどよかったね。お父さんと千鶴さん、またうまく行きそうで」
「そう! そうなんだ。そこはほんとにそう!」
ちょっと意気込んで、司くんはそう答える。ああ、しっぽ振ってるワンコみたい。イメージとしたらやっぱり中型の柴犬だよね。黒柴?
内心失礼なことを考えてるあたしに、司くんは笑顔で言った。
「サンキュ、鞠乃ちゃん。俺さ、最初に鞠乃ちゃんに告って振られたときからさ、もうどうしたって友だちに収束していくだろう未来が見えてたっていうか、会話の機微みたいなもんからそういう予感がしてて、でも最近まで気持ちのどっかでほんとはちょっと納得できずにいたんだ。けど、いますげーナチュラルに鞠乃ちゃんのこと、友達として大事だって思ってる。だからサンキュー? ありがとう? 友だちでいてくれて」
えーと、この人には照れというものがないのかな?
友情の両想いというのはこれはこれで結構恥ずかしいと思うのだけどね。
あたし、ちょっと赤面してたかもしれない。そんなあたしに司くんは少し目を細めて笑う。なんとなくだけど年上ぶられてるようにも思えて釈然としないけど、まあいっか。司くんは梓の弟だから、あたしにとっても弟っぽいイメージなんだけど、ほんとのところは年上だものね。あと、精神的にも梓よりは少し上。多分だけどね。




