52 それすらも君と過ごすかけがえのない日々(1)
梓は今週いっぱい、あたしの家から通学することになった。兄貴がソワソワしてたけど、あたしはいつも以上に梓をガードして、近寄らせないようにした。
シャワーの介助はあたしがやった。っていっても両腕をサランラップでぐるぐる巻きにして水がかからないようにしてシャワー浴びるから、大体のところは梓が自分でできた。あたしは髪と背中だけを洗ってあげたの。腕を大きく持ち上げるのが辛そうだったからね。
やっぱり梓、瘦せすぎてるなあ。少しだけど、肋骨とか腰骨とか浮いて見えるぐらいだもの。そしていわゆる貧乳だ。よく少年漫画とかゲームキャラだとかにスレンダーだけど出るところはめちゃくちゃ出てる女の人が登場してくるけど、現実はそうはいかない。
左右の胸の真ん中に、胸骨に沿ってまっすぐに走る大きな傷跡があった。まだ鮮やかなピンクで、ひどく生々しい。
「ちょっとグロテスクでごめんね。全部で3回同じところを切ってるから。でも皮膚の再生力ってすごいって、自分でも驚く。治れって命令しなくても、勝手に治るのだもの」
「別にグロくはないよ。痛かっただろうなあ、って思うけど」
ううん、むしろあたし、梓のその胸の傷を見て、とても綺麗だなって思ったの。でも自分でも邪まな感想っぽいって思ったから、口には出さなかった。あたしの中の情動を、深いところから駆り立てるような何か。清冽な音楽を聴いたときのような、静謐な絵に向き合っているときのような、世界の果てに向かって走り出したくなるような、なんだか涙がこぼれそうになるような。
「すごい手術をして生き残ったんだなって、改めて思うから──梓が生きててくれてほんとによかったなって、あたしは改めて思うよ」
「ありがと、鞠乃」
浴室の鏡越しに梓の口元が、一瞬微笑んだあと、ほんの少し震えて歪む。けれどもそれも一瞬で、何か決意したように彼女は唇を引き結んだ。
なんだろう。野生動物がすごく弱ってるのに弱みを見せないみたいな、そんな危うげな印象だった。
「シャンプー流すから、ちょっと目をつぶってて」
あたしはそういうと、ラップ越しでもなるべく梓の両腕にお湯がかからないように気をつけながら、シャワーで髪を洗い流していく。真っ黒な梓の髪。トリートメントしてドライヤーで乾かすと、ほんっとうにサラサラになるの。あたしが乾かしてあげたいから、梓がお風呂から出たあとは、あたしも大急ぎでシャワーと洗髪を済ませてしまう。急いで追いかけないと、ママがやっちゃうからね。うちのママはちょっとガサツだから、ママに任せるのは心配。綺麗な梓の髪を傷めないように、タオルドライを中心にして丁寧に乾かしてあげたいの。
梓のママはまだ入院している。梓は腕の切り傷の診察と包帯の交換のために月曜日に受診して、そのついでにママの病室を覗いたんだって。そしたら会いたくないって拒絶されたの。ママが興奮して、来ないでって叫んで、ちょっとした騒ぎになってしまったんだって。同室の人に迷惑がかかるから、もう顔を出せないって困った顔で梓は言ってた。ただ、着替えなんかは看護師さんの詰め所が預かってくれるから、病室には行けないけど、時々様子を見に行くつもりだって言ってた。
ママったらもうほんと子どもみたいで、仕方ないんだから、って言って梓はほっと溜息をつく。一見落ち着いてるようにも見えるけど、梓の顔色を見てたら、あんまり大丈夫じゃない気がする。
ちなみに司くんのママの千鶴さんがいま勤務しているのは5階の小児病棟で、全くつながりのない部署だから、梓ママについては個人情報が保護されているのもあって一切わからないんだって。土曜日以降、千鶴さんとはメールでちょこちょこと情報交換をしているの。菅生さんとは雪佳さんに電話を貸して以来のやり取りはないけどね。
動かなくなった梓の携帯は結局データを回収することはできず、買い直したときに、いろいろと登録し直さなきゃいけなかった。一週間を梓はあたしの一家と過ごし、金曜日の夕方、学校を早退して病院で抜糸をしてもらって、その足でママと住んでいたアパートに戻る予定にしている。そんで金曜日の晩にはまた雪佳さんが来てくれるんだって。
梓がうちにいる間に一度様子を見に来るからっていってた司くん、数日見ないし連絡もないなと思っていたら、水曜日の夕方に、両頬をめちゃくちゃ腫らして現れた。
あたしんちまで来たのは初めてだったけど、一度うちの最寄り駅まで迎えに来てくれたことがあったから、聞いた住所を頼りにバイクを走らせたらすぐわかったって。
「なんか顔の形変わってるんだけど。どうしたの? お父さんとまた喧嘩したの?」
腫れあがってパンパンで、形だけじゃなくて色も紫色に変色してるもんだから、一見してただ事じゃないのがわかる。
「お京さんにも聞かれたけど、親父は関係ない。ってか親父への風評被害がひどい気がする」
「上がってって。梓いるよ」
「あっ、これ手土産。ご家族の人いる?」
「いまはいない。けど兄貴がもう少ししたら帰ってくるかも。帰ったら挨拶する?」
「ああ。アズちゃんが世話になってるし」
「言っちゃなんだけど、兄貴はなんにもお世話してないけどね」
お世話させまいとしてあたしがガードしてたのもあるけどね。
「飲み物持っていくから、部屋に行っててもらっていい? 階段上がって突き当りが兄貴の部屋で、吹き抜けをぐるっと回った反対側の入り口があたしの部屋。梓は中にいるから」
ものぐさで勤勉な梓は、あたしの部屋に持ち込んでるちっちゃな折り畳みのちゃぶ台で、おそらく勉強をしているはず。
そう思ってたんだけど、あたしが部屋に戻ってみたら、ベッドの縁にもたれて梓、うたた寝しちゃってた。こうして梓がよく眠るのは、やっぱり怪我のせいなんだろうな。痛みで夜、熟睡できなかったみたいだから。ここ数日でだいぶ痛みが和らいだって言ってたけどね。
「アズちゃん、あれからどんな様子?」
「それがね、すごい普通にしてて、かえってそれが、無理してるんじゃないかって思えちゃう」
あたし、月曜日に梓がママのお見舞いに行った時のことを話した。ママに拒絶されて帰ってきた日の話。
「アズちゃんと母親、もとに戻れんのかな?」
「なんかそのことについても、千鶴さん、梓の保護者の方と話し合いたいって言ってたよ。あと、司くんのパパは梓に会いたいってしきりに言ってるらしい」
「鞠乃ちゃん、ちづちゃんと連絡取り合ってんの?」
「この前連絡先交換したからね。司くんに連絡頼むとレスポンス悪いからストレス溜まるんだって」
「うう、それを言われると耳が痛い」
「それより、どしたの、そのほっぺ」
「ああ、これ、国原さんにやられた。てか、レイプされそうになった」
司くんがぎょっとするような言葉を口にするから、あたし、一瞬フリーズする。
司くんは、まるで他人事のように、土曜日の出来事を淡々と語って教えてくれた。
両腕に怪我をして縫った梓を、あたしんちに連れて行った日の晩のことだった。
司くんはいつものようにアパートの駐輪場にバイクを停めて、自分の部屋に入ろうとして鍵を開けた。暖かい日だったから、上着は脱いで、ヘルメットやカバンと一緒に手に持っててたから、開いたドアを片足で押さえながら電気をつけようと手を伸ばしたところで、後ろから誰かに口をふさがれた。そのまま部屋の中に押し込まれて、抵抗しようとしたんだけど口をふさがれたまま壁に押しつけられて、あわや窒息してしまいそうになったころで、手が離れた。
ふらついて膝をつきそうになったところを服の襟首のところをつかまれて持ち上げられて、そのままベッドにぶん投げられた。見たら国原さんで、目が合った瞬間国原さんはにやりと笑った。次の瞬間、極重のボディーブローを腹の真ん中に一発食らって、身体をくの字に折って悶絶してたら、飛び掛かってきて抑え込まれてシャツを破り取られた。ボトムにも手を掛けられて、そのまま引きずりおろされた。ああ、これはそういう意図なんだってやっと認識して、命の危機ではないと判断。ちょっとおとなしくしてて隙を伺ってから身体をひねりざま膝蹴りを食らわせたら、どうやら反撃されると全然思っていなかった国原さん、すごい憤怒の表情に変わって、激しい往復ビンタを食らわせてきた。
もうそのころには司くん、頭のどっかが冷静になってて、ビンタの直後、一度身体を引いて身を起こしながら、拳で反撃したんだって。その瞬間は、どっちの足を先に前に出すかとか、そういうことしか考えてなかったそう。
頭の中で、ワン、ツー、スリーってタイミング計って、これがクリーンヒット。
司くんの遠慮もためらいも皆無の最速のアッパーが国原さんの顎に直撃して、国原さん、大きく吹っ飛んだ。狭いアパートの一室のテレビのモニターに後頭部を強打した国原さん、そのまま伸びてしまったそう。あとで診察したら、顎の骨にヒビが入ってたらしい。
ちなみに司くんも負傷した。力いっぱい頬を張られたせいで右の鼓膜が破れてるんだって。いまは左耳だけが音を拾える状態だそう。全治一か月とのこと。とっさに歯を食いしばり損ねたから、口の中も大きく切れた。あと、最初の一撃で肋骨が2本折れてた。幸い肺とかに損傷はなくて、これも自然治癒するらしい。
タイミングが良かったのか悪かったのか、司くんが国原さんをぶっ飛ばした直後、ワンゲル部の先輩が、寝袋を返してもらいに訪ねてきたらしい。目を白黒させてる先輩に警察と救急車を呼んでもらって、病院で警察の事情聴取を受けて、状況を説明して、治療を受けて、でも何日か経ってもまだいろいろゴタついてるって。




