50 ひび割れた日常(2)
道すがら、雪佳さんは質問してきた。
「梓ちゃんが、どうして私に病院に来てほしくないって言ってたのか、鞠乃ちゃんは聞いてる?」
「聞いてます」
「梓ちゃん、なんて言ってた?」
「梓のママが雪佳さんを見たら興奮するかもしれないから会わせない方がいいんじゃないかと思うって。でも迷ってるとも言ってました」
「ああ、梓ちゃんが母親の顔色を窺って暮らしているのは、相変わらずなのね」
雪佳さんはしかめっ面でそうつぶやく。
「私は別に梓に頼まれたわけじゃなくて、勝手に梓の様子を見に来たのだけれども、私が来ていることを梓の母親が知れば嫌がるのはわかってるの。あの子は自分の子育てのやり方に口出しされるのをすごく嫌うから。それはともかく、怪我の具合がどうなのかは聞いてる? どうして美咲は怪我をしたのかしら?」
その質問にはあたしは、首を横に振る。
「それはまだ、あたしも説明をしてもらっていません。ただ、手術で命を取り止めたって聞きました。大きな怪我だったんだと思います。あたし、梓に電話で頼まれて──雪佳さんに梓のアパートの鍵を渡すように頼まれたんです。だけど病院に着いたら、詰め所の看護師さんに、いま警察の人が介入しているから、鍵は渡せないって言われたんです。あっ、刑事事件にはならないはずだから、安心して待っててくださいとも言われました」
病院に戻ると、面会室に梓は出てきていた。事情聴取は終わったそう。
梓は両腕を包帯でぐるぐる巻きにされていて、両腕だけを見たらプチミイラのよう。前合わせの浴衣の上半分だけのような和服っぽい寝間着を着ている。色は薄いグレーで、一目で病院から貸し出されたものだとわかる服装だ。ボトムは部屋着のままのハーフパンツ。青い顔をしていて、ソファの一つにぐったりと座り込んでた。
「梓、怪我してるの? 大丈夫?」
「鞠乃。来てくれたの。ありがとう」
顔を上げた梓は、口元だけで少し微笑んだ。
「大丈夫。私は大したことないから」
「右腕は3針だったけど、左腕は7針だってよ。大怪我だと思う」
横から司くんがそう言った。そうしたら梓は首を振る。
「ママの方がもっとずっと大変だった。大きな動脈を損傷してたとかで、低体温にしてからの手術が必要だとかいって、時間もかかったし、助からないかもと思った」
「何があったの?」
「……ママが包丁を持ち出して、自分で振り回して、自分の首のところを刺したの」
実は半分ぐらいはそんな予感がしていた。けどまさか、梓のママがそんなことをするわけないとも思ってた。
「私が、裏切るのだったら許さないって言って……。私、とっさに止めようとしたの。ママから包丁を取り上げようとして、でもうまくいかなくて……」
司くんは梓のすぐ隣に座っていて、包み込むようにしてぎゅっと梓の肩を抱いた。梓はぼんやりしてされるままになっていたけれども、ちょっとして、小さな声で言った。
「大丈夫よ。私は大丈夫」
まるで自分自身に言い聞かせるような言い方。
「鞠乃ちゃん、悪い。ちょっとこっち来て、アズちゃんの横に座ってあげて。うん、俺の反対側のそっち」
司くんに言われるままに梓の隣に座ったら、途端に梓に抱きつかれた。
「鞠乃、どこ行ってたのよ。なんでいないのよ」
「ごめんね、梓。ごめん」
無理やりに一度腕をほどいて背中に腕を回して、ぽんぽんと叩いた。そしたら梓はもう一度ぎゅっとしがみついてくる。怪我人とは思えないような強い力だった。さっき電話で話したときに、ついていようかってあたしが聞いたら、大丈夫だから雪佳伯母さんをお願いって言ったのは梓自身なんだけどね。だからいまのは言いがかりだってわかっていたけど、反論する気にはなれない。
「怪我したとこ、痛くないの? 少し力緩めて?」
「痛い。でも嫌」
「鞠乃ちゃんは雪佳さんを迎えに行ってたんだよ。病院の人が鍵を渡してくれないし、できれば成人した親族の同意書が欲しいって言われたから」
「司、うるさい。耳障りだからちょっと黙ってて」
すっごい不機嫌な声だ。ごめんよ司くん。この人ちょっと幼児化してるみたい。
心配してくれてる弟に対してこんな横柄な態度の梓でも、世界一可愛いとしか思えないあたしの頭は相当イカレてると思うし、なんなら抱き着かれているこの状況を役得とすら考えてるゲスい思考回路も健在だ。うん。恋ってほんと不条理。でもそんな場合じゃないよね。そう思い直して、改めて気を引き締め直す。
「警察の人が来たのはどうして?」
梓が黙ったままだったから、司くんが口を開く。
「警察の人が来たのはさ、麻酔から目を覚ましたアズちゃんのかーちゃんが、看護師さんに言ったからなんだ。アズちゃんに刺されて怪我をしたんだって」
え?
「それで病院の人が一応ってことで警察に知らせたんだ。麻酔の影響で記憶の混乱が起こってる可能性もあるにはあるけど、時間が経ってからもう一度そう言い張る場合もあるから、事実関係を先にはっきりさせておいた方がいいって判断したんだって。んで、担当してくれてる先生が言ってくれた。傷の角度とか刃物の入り方とかから検分した結果、お母さんの自傷で間違いないって。アズちゃんは止めようとしただけだって。警察の人は資料を持ち帰って警察関係の医師にも一応確認するらしいけど、結論が覆ることはまずないだろうってことらしい。母親が自傷しようとしたのは罪には問えなくて、アズちゃんを怪我させたのは過失傷害罪だけど、精神的に不安定な人をあえて刺激するよりはそっとしておく方がよいんじゃないかって、警察の人にも言われた。過失だから親告罪だからって。よっておとがめなし。アズちゃんがお母さんを訴えたいなら話は別だけどね」
司くんの言葉に、梓はブルブルとかぶりを振った。
そこへ、詰め所で病院に提出する書類を記入していた雪佳さんが、遅れてやってくる。
「梓ちゃん?」
雪佳さんは案内の看護師さんに会釈をしてから、梓の座っているソファの脇にしゃがみこんで膝をついた。
「大変だったね。梓ちゃん、怪我をしたんだね」
「雪佳伯母さん、私、失敗してしまったみたいです……」
小さな声で梓は、そうつぶやいた。
「うまくやっていけると思っていたのに、うまくやっていけてたのに……」
「梓ちゃん、お母さんが怪我をしたのは、梓ちゃんのせいじゃないのよ」
「私のせいです。司のママに会うことをママに言わずに、私が黙って出かけてさえいたら、こんなことにはならなかったのに。先のこと考えたら、少しぐらいは話した方がいいんじゃないかって、うっかり思ってしまって……。ママがこんな風にパニック起こすなんて、思ってもみなかったんです」
「梓ちゃん、こんなときにいうことじゃないかもしれないけれどもね、なにもかも自分の思い通りにしようとする人と、うまくやっていける方法なんてないんだよ」
「そんなんじゃないんです。ほんとにママと私、これまでうまくやっていけてたんです。だってママにとっては、知らなければそこにないのと同じで、ママの見たいもの以外は見なければそれでよかったんだから。それさえ間違えなければうまくやれてたはずなんです」
「だからってね、梓ちゃんが何もかもを全部我慢するのは間違っているからね」
梓があたしに回してた腕をほどいて身を起こしたので、雪佳さんはソファの横に膝をついたまま、梓の手を取った。
「伯母さんが心配になってきょう東京に出てきたのはね、梓ちゃんが受験も進学も、何もかも諦めてしまったんじゃないかと思ったからなの。梓ちゃん、11月の高卒認定試験のことはママにはもう話したの?」
雪佳さんの質問に、梓は首を振った。
「ママには話せませんでした。ゆうべ夜中にママが帰ってきたときに話をしようと思ったんですけど、やっぱり疲れてるから今度にしてって言われて、できなくて。夜中の3時ごろふと目が覚めたらリビングの電気が点いてて、出ていったらママが珍しくまだ起きてDVDとか観てて……。なんだか進路の話も重くて、それよりも偶然司に再会した話をしてしまおうと思って話しかけて──」
そこから口論になったのだそう。
梓のママは言った。
「菅生と離婚する前に私たちがどんな目に遭ってきたか、梓ちゃんは知ってるはずでしょう? なのにどうしていまさらコンタクトを取ろうとするの? ママ、梓ちゃんの考えてることが全然わからない」
「司のこと、ママは心配じゃなかったの? どうしてるのか全然わからなくて、やっと再会できたんだよ? これまでどうしていたか知りたいと思っちゃいけないの?」
「ママは梓ちゃんのことだけが心配なの。司は少なくとも健康体でしょ? 梓ちゃんは身体が弱いのに、そんな乱暴な人たちとかかわりあっては絶対駄目」
「どうして? 司だってママの子でしょ? 泣く泣く手放したって言ってたじゃない。どんなふうに過ごしてきたのか心配じゃなかったの?」
最初はこんな感じでまだお互いにちゃんとした言葉の応酬だったのだけど、言い合っているうちに、ママ、だんだん支離滅裂になってきて、感情的に言い返してきて、しまいには梓の携帯を取り上げて、これが汚い、これが汚れてるからいけないんだって言い出して、台所洗剤で洗い始めたんだって。なんかママの様子がヤバいしこれはもうきょう莫さんちに向かうのは無理かもと思って梓、そのすきに家の電話からあたしに連絡して、そのあと雪佳伯母さんにも電話したけど、おばさんにはつながらなくて、呼び出し音を聞きながらふと振り返ってママの様子を見たら、ママ、そのとき包丁を持ち出してきてたんだって。
「梓ちゃんがママを裏切るなんて思わなかった。これまでママは梓ちゃんのことだけを考えて生きてきたのに、ママのところから出て行こうとするんだったら絶対許さないから」
ママはそんな風に言って、梓をにらみながら、自分ののどに向けて振り上げたんだって。
梓は受話器は放り出して、無我夢中でそれを止めようとした。だけど間に合わなくて、包丁の切っ先は多分少しそれて首の付け根か胸のあたりを突いて、血がたくさん出て。携帯で救急車呼ぼうと思ったけど携帯は全然動かなくなってて、それでお家の電話から119番したんだって。救急隊員の人の指示に従って無我夢中で止血を行いながら待って、救急車の中でも受け入れ先の病院が決まらなくて、隊員の人がずっとあちこちと連絡取っててすごいヒヤヒヤしたんだって。
「私、多分ことしの受験は無理だと思います。ママのそばを離れるのは無理そうだし、高校中退するっていうのもママを悲しませると思うから……」
「それは駄目よ。梓ちゃん」
雪佳さんは梓の手を握ったまま、きっぱりとした声で言った。
「癇癪を起したことで人を思い通りにしたっていう経験をしてしまうのは、美咲のためになりませんからね。梓ちゃんがその方が楽だと考えるのもわかるのだけれど、それを通すわけにはいきません」
「でも……」
「美咲には私から話をします」
「だけど私がおばさんを呼んだってママに思われたら、またママは裏切られたって感じるかもしれないから……」
「その考え方がおかしいの。梓ちゃんのことを考えるのは母親の専売特許じゃないんですからね。とにかく私は来てしまったし、梓ちゃんのママと話をせずに帰ることはできません。梓ちゃんが呼んだって思われるが嫌なのはわかるから、私が勝手に押しかけてきたことは強調しておきますけどね。とにかく梓ちゃんは待ってて。わかったわね」
しぶしぶといった様子で、梓は頷いた。
「ところで、梓ちゃんも入院することになってるのかしら?」
「私は帰れるんですけど、両腕を怪我してるから、だれか手伝ってくれる人がいないのならとりあえず1泊入院を勧められています。あと、うちを出るときに着てたTシャツが駄目になってしまって、何か着るものがないと病院を出られません」
「わかったわ。それもなんとかしましょうね。幸い手伝ってくれる子たちも居そうだし」
そう言っておばさんは、司くんとあたしを見た。
梓のママの病室は2人部屋で、2つのベッドのうちの1つは今夜は空いているとのことだった。だから怪我をした梓がそこに入院することもできるって病院から言われたんだけど、ママが拒否をした。
ママは梓に刺されたって、やっぱり言い張ってるんだって。それだけじゃなくて、梓に会いたくないとも言っているそう。担当した先生が、娘さんがあなたを刺したというのはあなたの記憶違いで、あなたが自分自身で傷つけたんですよって、説明したんだけど、ママは納得しなかった。
梓のママによると、夕べ口論になって、梓が菅生のところへどうしても行くって言い張ったから、どうにかしてそれを止めないといけないと思って、包丁を持ち出したところまでは確かにそうだとのこと。けれども自分で自分を刺す気なんてそもそもなくて、梓が行くのをやめると言ってくれたらそれでよかったんだって。
そしたら梓が飛び掛かってきて、包丁ごとママの手をつかんで振り回したんだっていうの。包丁を握ってたのは確かに自分だけど、それをぐっとつかんで振り回したのは梓だって主張した。それに対して病院の先生は、娘さんは両腕を切ってるわけだし、物理的に無理だったはずだって説明したけど、そんなはずはない、の一点張りだったんだって。
心療内科の先生が呼ばれてママは診察を受けたけど、いまの段階で何か精神的な障害もしくは疾患があるとは診断できないと言われた。正常な人でも事実と違うことを思い込んでしまうことがあるんだって。ただ、自傷するほど不安定になっているのは確かだから、要経過観察とのことだった。
雪佳伯母さんは、ママが言い張っていることに対してはもう何も反論せずに、梓ちゃんはしばらくこちらで預かるから、とだけ告げた。
昼食は、梓にだけは病院食が出たそう。あたしが雪佳さんのを迎えに行っている間に、面会室のテーブルに運んでもらって先に食べたんだって。ママにはきょうはまだ昼食はないそう。麻酔が醒めたばかりなのと、点滴してるのとまだ絶対安静だとか、いろんな理由があってのことだそう。司くんと雪佳さんとあたしは、いろんなバタバタが一段落してから一階の食堂まで下りて、かなり遅めの昼食を一緒に食べた。もう3時過ぎなのに普通に昼食取ってる先生とか看護師さんとかいたよ。病院の仕事って大変だなあ、って改めて思う。
そのあと梓の入院中止の手続きを取って、あたしと司くんとでとりあえず帰宅時に梓が着る服だけをその辺で調達して(ちょうどすぐそばにユニクロがあった)、そのあと梓と雪佳さんと司くんとあたしとで、梓のアパートに戻った。




