44 その日はずっと青空だった(3)
テーブルの向こうの入口から平島さんと同年代ぐらいの女の人が入ってくるところだった。ダークブラウンの長い髪をゆるふわパーマにしてる。目が吊り上がって大きくて、童話の絵本に出て来る猫のダヤンみたいな顔立ち。ロングスカートにロングカーディガン。秋色のアースオレンジとモスグリーンの濃淡でまとめた大人っぽい装い。足元はボタニカル柄のスリッポン。
「ドロシー早かったね。アリスちゃんは? ああ、髪を下ろしたドロシー新鮮だね。いつものスーツやオフィスカジュアルと違ったフェミニンなファッションもいいね。スニーカー姿初めて見たけどキュートだよ。このへんでデートってことはショッピングかな? いいものあった?」
「カナミはまだケーキ店。平っちのコーヒー壊滅的だから先に助っ人に来たんだけど、お客さんに淹れてもらったんだね。デートっていうかお好み焼き食べてそのあとドンキにいた」
ドロシーさん、平島さんがひとしきりしゃべり終わるのを待ってから返事をする。
口を開いたら、すごいラフな印象。しかも平島さんのこと、平っちと呼んでる。目の前の人はドロシーとかドリちゃんとか呼ばれてて、アリスちゃんと呼ばれてる人はカナミさんという名前らしい。名前の呼び方が人それぞれに違ってて混乱しそう。あとドロシー普通に日本人だった。
平島さんはとにかく周囲の人をホメてホメまくるスタイルみたいで、多分ホメられ慣れてるだろうドロシーさんは全く動じてない。
「けさ大宮の方に遊びに行こうかどうか迷ってたんだけど、こっちにいてよかったよ。それで、うちに来るのって、えーと……」
ドロシーさん、椅子に座って隣の席の梓と話をしてたっぽかった裕希くんと、コーヒーをテーブルに配ってる司くんの両方を見比べて、
「あっ、こっちあれでしょ。平っちの愛しの君」
「この子はタオよ。ドリちゃんその呼び方やめてやってくれる?」
とお京さん。
「タオはドリちゃん初めて? 平島さんと一緒に莫の店に来たことあるのよ」
紹介されて、司くんはドロシーさん(ドリーさん?)に軽く頭を下げたんだけど、ドロシーさんとお京さんは再会を喜び合ってそのまま2人だけで会話を始めてしまう。。
「あたしが最初にお店で京ちゃんに会ったのって、ワニさんの主催する会合のときだよね。あのときは確か、集まってたの女子メインだったよね。あのとき平っちにカナミのこと拾ってもらったから、あたしたちのいまがあるのよ。あのときカナミ、親に無理やり結婚させられそうになってて」
「それがアリスちゃんのことはあたし、印象にないのよ。たまたまずっと別のグループで話をしてたのかしら? ドリちゃんとはあのあとも会ってるわよね?」
「あたしはあのあとしばらくは会合の度に顔出してた。カナミに出会い目的みたいに思われるのが嫌で出るのやめたけど。そういう意図の集まりじゃないって説明はしたんだけど、実際あたしとカナミが出会ったのがあの会合だから説得力がいまいちなんだよね。カナミはあのときたまたまマホちゃんに連れて来られてて、そのときが最初で一回きりじゃないのかなあ」
「てかあんた、ドリーからドロシーに呼ばれ方変わってるのなんで?」
「平っちが勝手に呼び始めたんだよ。ドリーだとなんかディズニー映画の魚を連想するからやっぱりドロシーにしようって」
「けどドロシーっていうとオズの魔法使いを連想しない?」
「だよね? アリスは不思議の国のアリスだしどんな名前も手垢のついてない名前ってないと思うんだけど」
「会合はアリスちゃん連れて一緒に出たらいいんじゃないの? 出会いって一口で言ってもやましいことなんかない出会いだってゴロゴロあるんだから。なんならパートナーのいる人限定で企画してもいいわよね。あっ、でもそれだとあたしは出られないか」
「京ちゃん、そのことだけど、カレシさんのこと、ほんとになんて言っていいのか……」
「ありがと、ドリちゃん。あたし、いまはもう、ちゃんと日常に戻れてるから大丈夫よ。でも今度ゆっくり話聞いてくれる? あたしなりに考えたこととかを誰かとシェアしたい気分なのよ。時間もどんどん流れていくし、いつまでも後ろ向きでいてもしかたないからねえ」
「うん、うん。いくらでも話聞くよ」
「2人で盛り上がってるとこ悪いんだけど」
と平島さんがお京さんたちに声を掛ける。
「ヒロくんのことドロシーに紹介させて。ちょっとしばらくあなたたちと一緒に住んでもらおうと思ってる子なんだけどドロシーいいかな?」
「あっ、あたし塚田緑といいます。ドロシーは平っちが勝手に呼んでるだけだから」
「春日裕希です。いままで東京のK市にいたんですけど、近いうちにこっちに来ると思うんですけど、えーと……」
「呼び方ヒロくんでいいのかな? カナミが来たら一度3人で一緒にマンション見に行かない? 住宅地にある4階だからすごい眺めがいいよ。急だから散らかってて申し訳ないけど」
「あの、お世話になります。突然押しかけてごめんなさい。それで……カナミさんが、その、平島さんに拾ってもらったっていう話、何があったのか教えてもらってもいいですか?」
「ああ、いいよ。あとでカナミが来たらあたしの車で案内するから、道すがらにでも話そう」
カナミさん(アリスさん?)が親に無理やり結婚されそうになってたって、穏やかじゃない言い方だった。ていうか一体いつの時代の話?ってちょっと思ったけど。裕希くん、なんかちょっと気になったみたいだね。
「ドロシー、ケーキ買ってくるんだから食べてから行きなさいよ」
「平っち、あたしが甘いの苦手なこと知ってるよね? ていうかシュークリームにしたから。それなら平っち1人で3個ぐらい食べれるよね?」
「えーと、みどりさん?」
と、司くんが声を掛ける。
「ちょうどいいから座ってコーヒー飲んでヒロと話しててもらえますか?。まとめてもうちょっと用意してきますから」
司くんがそれからあたしに、一緒に来てもらっていい?って聞いたので、あたしたちもう一度給湯室に向かう。
「鞠乃ちゃん、ちょっと話聞いてもらっていいかな?」
新しく沸かすお湯を用意しながら、司くんはそう切り出した。
「いいよ。何の話?」
「莫さんのこと」
「うん」
「平島さんにどういう感情なんだって聞かれてさ。なんか一言で説明できなくて端折った。けど鞠乃ちゃんには聞いてほしい。それに関してっていうか、あとでちょっと頼み事もあるんだけど」
「いいよ。聞くよ」
「きのう市の図書館でちょっと話したこととかぶってるんだけど」
「うん」
「俺は人生のターニングポイントで莫さんに会った。ていうより、莫さんが俺のターニングポイントになったと思ってる」
司くんの話はそんな前置きから始まった。
「出会ったときのこと、もう少し話すけどさ。最初莫さんは俺を連れて帰ったときは、なんとか話をして説得して警察呼ぶか病院連れて行って、って思ってたと思う。でも実際に俺が話し初めてしまったら、説得して言いくるめるより話をただ聞いてくれることにシフトしてしまったんだ。なぜそんな風になったのかは思い返してもわからない。俺がずっとだんまりだったら、それはそれできっと警察に連れて行ってたと思う。けど、何かのきっかけで俺は話し始めてしまった。そしたら莫さんほんとにずっと俺の話を聞いてくれたの」
うん、ってあたし、短く相槌を打つ。
「ただ聞いてくれただけじゃなくて、混乱して行ったり来たりする部分を丁寧に聞き返してくれて、言葉にならなかったいろんな感情とか行き詰った思いとか、俺自身の内側に意志とか願いとかがあってそれに突き動かされて思わず行動してしまったんだってこととかを、言葉にして、確認して、フィードバックして引き出してくれた」
コンロの脇の壁にもたれて司くん、当時を思い出してるみたいに宙のどこかを見て、どちらかというと静かな声で話す。
「そのときはもう、とにかくずっと話をしてた。口の中切れてて物が食べられなかったからさ。アドレナリン放出状態で眠くもなかったし。正直痛みだってそんなでもなかった。話すことって、考えることでもあるんだと思った。あんなにたくさん話をしたのも、話したことを全部聞いてもらって受け止めてもらって中身のある言葉を返してもらったのも、自分自身のこととか親のことをこれまでどう思ってきたのかを考えたのも、きちんと言葉にして考えられないままだった感情の動きとかを言葉にするのも、全部が全部、生まれて初めてだった」
もたれていた壁から身を起こすと司くん、今度はあたしを見て、口元だけですこーし微笑む。笑顔からは司くんの感情は読み取れない。
「あとになって莫さんの周りの親しい人たちがみんな口を揃えて言ってたのがさ、莫さんは弁護士に向いてなかっただけだから、職を失ったのは俺のせいじゃないっていうことだった。お京さんとかもね。それはある意味本当のことだとは思う。感情的に相手に飲み込まれたら仕事にならないから。クライアントとかの気持ちに寄り添うことは必要でも、巻き込まれたら駄目だと思う。莫さん完璧に巻き込まれてたから。とはいえ巻き込んだのは俺だから、俺自身が俺のせいじゃないって言うつもり毛頭ないけど。ほんとに俺のせいだから。
だから、大人としての対処の仕方は大きく間違っていたんだろうということはわかるんだ。犯罪者にされてまで、勤務先に迷惑かけてまで、やることじゃなかったよね。それでも俺と対話してくれた時間は、そのときでなければ駄目だったって俺は思ってる。病院に連れて行かれて、親元に連れ戻されて、何が不満で何が行き止まりに感じていたのか自分でなんだかわからなくなってしまったあとじゃ、きっと駄目だった」
司くんは視線をコンロのあたりに落として、やっぱり静かな声で、こう言った。
「莫さんが共有してくれたのは、俺にとっての、魔法のような、夢のような、反逆の時間だった」
「……うん」
やっぱりあたしは頷いて、短い相槌を返す。
「俺は聞いてみたことがないんだけど、莫さんには当時、歯がゆい思いをするような何かが仕事関係とかであったのかも、とは思ってる。仕事でかかわっている以上は線引きがあって、助けたいのに助けられない限界みたいなの感じてたのかもって。取り返しのつかない何かがあったのかもしれないって。聞いてみたいと思うんだけど、きっかけがなくてさ。多分聞いたらはぐらかさずに教えてくれると思うんだけど。
ただ、そのとき俺が実感したのが、言葉にして考えたり思ったり願ったりすることそのものがパワーを持つんだってことだった。それを俺に教えてくれたのは莫さんだし、そこはいまの俺の原点なんだ。厨二臭い言い方すると、俺の心が生まれた日?みたいな? だから俺は、莫さんに心を産んでもらったの。恩人っていう言い方だと何か遠いしズレる。負い目でもない。負い目がないかっていうと、そりゃ、あるけど」
司くんの口調は、途中からいつもみたいな雑な感じに戻ったけど、それでもなんだか気安く、わかるよ、とも言えなくて、あたしは今度も黙ったまま頷いた。
「鞠乃ちゃんに聞いてほしかった補足っていうのはここまでなんだけどさ……」
「うん」
「もう少しいい?」
「うん。聞くよ」
「きのう鞠乃ちゃんにあのときのことを話したあと、もう一度ゆっくり思い返してたんだけどさ。それで、思い出したことがもう一つあってさ。俺、親父に最初に殴られた瞬間、即座にキレて殴り返してるの。そのときの不可解な感情の動き、みたいなの?」
「理不尽だと思ったから殴り返した、って言ってなかった?」
「うん。それはそうなんだけどさ。とっさに身体が動くって、ほかではあんまり聞かないと思う。俺もそんなにたくさん文献読み漁ったわけじゃないから、いきなりキレて殴り返す子どもがいても不思議じゃないのかもしれない。けど、やっぱり不自然な気がする」
「どういう感情だったの?」
「殴られたら、殴り返さなきゃ駄目だって、なんか純粋に思ってた」
「身体が先に動いちゃった感じ?」
「そう。それで、もしかしたらと思った。俺の記憶がないこととなんか関係があるのかもって」
「梓のことやお母さんのことは、やっぱり思い出せないんだよね」
あたしの言葉に、司くん頷いた。
「それでさ」
と、司くんは続けて言った。
「今度の土曜日に母親に──ちづちゃんに約束したんだ。昔のことで知ってることあったら、土曜日、会ったときに教えてもらうって。それで、アズちゃんをそこに引っ張り出せないかなと思ってる。昔何があったのかをアズちゃんも知りたいと思ってるはずだからさ。ただ俺、そう思う反面で、なんていうかアズちゃんが心配なんだよ。ヤな予感がするっていうか、アズちゃんにとってどういった話が飛び出すのかわからない予感、みたいなものもあって。アズちゃん見てると理由もわからず鬱屈してた、昔の俺を見てるみたいで……。あとそれと、きのうちづちゃんの言ってたことで俺、引っかかってることがあってさ」
「引っかかってること?」
「ああ」
と、司くんは頷いた。
「親父が最初の離婚をしたときのこと。逃げたのが母親の側じゃなくて、親父の方が俺連れて逃げ出したってやつ。なんで先にダメだって思ったのが親父の側だったんだろうって。ヒロの件見てても、傍からみたらどう見ても破綻してるのに追っかけてきてるのは国原さんの方じゃん。親父の方から逃げ出したのはなんで?って、ちょっと引っかかってる」
「あのね……」
言おうかどうしようか迷ったけど、梓のこと、簡潔に伝えてみることにした。
「多分だけど、梓と梓ママ、あまりうまくいってないんだと思うの。あたしは梓のママには直接会ったことがないんだけど、梓のママは多分いまでもあなたたちのパパに傷つけられたことから立ち直ってないんだと思う。それに関して梓は、自分が加害者のように感じてる気がする。あたしから見える印象みたいなものだから、どこまで正確かわからないけど」
「あのさ、こんなこと俺が言えた義理じゃないんだけど、その……」
司くん、少し口ごもると、思い切ったように言葉をつないだ。
「アズちゃんにとってのキーマンは、鞠乃ちゃん、あんただと思ってる。俺にとって莫さんがいたようにさ。あんたのアズちゃんへの気持ちを利用してるみたいですげー気が引けるんだけど、いや、実際利用しようとしてるんだけど、頼む、鞠乃ちゃん、アズちゃんの話をできるだけ聞いてあげて」
今週の土曜日に千鶴さんに話を聞くときに、司くんは梓を誘うつもりなんだといった。話が終わったら司くんからあたしにメールするから、そのあとなんとか梓のフォローを頼めないかって言われた。
「アズちゃん多分、全部溜め込むんだよ。それでこれ、怖くて絶対アズちゃんには言えないことだけど、親父にもそういった面があるの。自分の感情に鈍感になろうとして間違ったベクトルに努力しちゃう感じ? 遺伝なのか共通の環境なのか何かわからないけどさ」
それは確かに言えないことかも。お父さんに似てるとこがあるって言葉は、きっと梓を傷つける。
「そんでアズちゃんはなんかそれにヘンに成功しちゃってる感じがするんだよ。ハタ迷惑なのは八つ当たりしてくる親父の方だけど、俺にはアズちゃんの方が危なっかしいように感じる」
「あたしにできることだったらなんだってするけど、梓はあたしにあんまり気持ちとか話してくれないんだよね。ママとのことだって、実はさっき、山岡さんの事務所でヒロくん待ってたときに初めて聞いたの。あたしはいろんなことがまだちゃんと想像したりわかったりできずにいるから、もしかしたらこれまでだって、梓が聞いてほしがってるのに気づかないでいたこととかもあったのかもしれない。あたしじゃ力不足かもしれないよ」
「でもアズちゃんが一番心を開いてるのは鞠乃ちゃん、あんただと思う」
「莫さんはどうかな?」
あたし、考えをまとめながら、口にしてみる。
「いま司くんがあたしに説明してくれたようなこと、梓は莫さんを一目見て、まるっと全部感づいたっていうか、わかっちゃったような感じなの。ほんとの意味で理解しているのかはわからないけど、梓は莫さんに救われたがってるような気がする」
「それってうまくいくと思う? 俺、あんまり期待できない気がするんだけど。人と人とのつながりって、どっちかがどっちかに救いを求めて成り立つようなものじゃないじゃん。その人がどうのっていうだけじゃなくて、タイミングとかもあるし。莫さん普通に、普通の人間だから。そりゃ、俺にとっては神さまのようなもんだけど」
「神さまなの?」
あたし、聞き返してみた。
「それって崇拝してるってことにはならないの?」
「どうなんだろう。神さまだった人? 人間くさいし、ゲイだし、ダメンズウォーカーだし、流されやすいし、そこまで思慮深いわけでもなくて、自分を守るのに無頓着なところがあるし、ちょっとアナーキーだったりもするし、長いつきあいだからいろいろな面が見えてきてさ、全部を全部、肯定してるわけじゃないけど、それでも何が起こってもどういう状況になっても、俺は莫さんの味方だと思う」
「さっきの国会議事堂爆破の例えはわかりにくかったよ。いまの司くんの説明の方がシンプルでわかりやすい」
「平島さんが聞きたかったのは恋愛かどうかって点だけみたいだったから、それに対しての切り込み方がよくわからなかったんだ。なんか長々と説明するのも違う気がしたし」
「司くんの気持ちが恋じゃないのはわかる。恋ってもっと醜くて汚い感情だもの。相手の幸せを願いきれないエゴとかもあるし。あたし、梓がもっと何かに傷ついてだれにも何も話せなくてあたしだけを頼ってきてくれたらきっと嬉しいって考えちゃうの。そんな考えが浮かぶこと自体、自分でもゾッとする」
「けど鞠乃ちゃんはそんな風に行動しないだろ。アズちゃんを追い込んで、自分だけを頼りにさせる、みたいなのはさ」
「矛盾するけど梓にはやっぱり笑っててほしいし幸せでいてほしいんだもの。もしも梓がどっか遠くに行っちゃっていままでみたいに会えなくなるとしても、梓が笑えなくなるよりは全然マシだと思うんだ。でも、そんなの想像するだけでもう胸が痛いし、息が止まりそうだけど。なんか背反するいろんな感情がぐちゃぐちゃに絡まりあって自分の中にあるのがわかるの。そういったあたしのいろんな感情はもっか梓を中心に回ってる。もう全部、ぐるぐると」
あたしの言葉に司くんは少し目を細めて笑った。最初に会ったときに梓に向けて見せたような、ひどく優しい笑顔だった。




