30 月の出た深夜(3)
「ていうか、いま親父の話じゃねーよな」
「鞠乃さんの話だね」
「ちげーだろ。ヒロのことだよ」
莫さん、司くんの言葉に小さく笑って話題を変えた。
「さっきは裕希くんとずいぶん話し込んでいたみたいだったね」
「ああ」
司くんの声が、少し低くなる。
「ヒロの家庭の事情とか、カノンのオーナーとのこととか、もう少し詳しく話してもらった。カノンのオーナーだけど、やっぱり異常者だと思う。ヒロのこと悪者にして周囲から孤立させて遮断して、ヒロがダメージを受けるようなことを言ったりやったりを繰り返して心を折って、ちょっとの反抗も許さないぐらい強く支配して、暴力ふるって束縛して、がんじがらめにしてさ。いろいろ話してみたあとでヒロ言ってたけど、一緒にいたら全然気づけなかったことが、きょうちょっと離れてみて少しだけ腑に落ちてきたから、頑張ってこのままオーナーから離れてみることにするって。ただ、決心はしてるけど、なんか気持ちがついていかなくて大変だって言ってた。だから俺、できることがあったら手助けしたいと思ってるんだ」
黙って聞いている莫さんに、司くんは小さくため息をついて、言葉をつないだ。
「あのさ、もう昔のことだけどさ、そこがもう世界の行き止まりだと思って、どうにもならないって感じてて、それでもあがいてあがいて、でも負けが見えてる絶望感っていうの? 7年前だけど、俺は覚えてる。けど莫さん、あんたに俺はそこから助け出してもらった。できればあんたに恩返ししたいけどさ、それとは別に、そんな迷路みたいな袋小路みたいな狭い世界から、案外簡単に出ていくことができるんだって、俺はヒロにも伝えたい。でもそんなのって言葉で言ってもダメじゃん。見て知って経験して初めてわかるってか、納得できることじゃん」
「君が裕希くんのことを、かつての君に重ねて見てしまうかもとは思ったよ」
低い落ち着いた穏やかな声で、莫さんはそう答えた。
「けれども君と彼は違うと思う」
「そうかな」
「少なくとも君は、1人で状況に立ち向かおうしていた。もしも助け手が一人も現れなかったとしても、世界中が君に考えていることや望んでいることに反対していたとしてもだよ。だが、裕希くんは酒に逃げて、手首を切ってる」
「……いやそれ、状況そのものがちげーし。逆に言えば俺、ガキだったから。変な言い方になるけど親父のことを変に信頼してたっていうか、話が通じないとかこっちの言うことが伝わらないとかのジレンマはあっても、孤独感に悩むとかはなかったし。それ以前に、親父にとっての俺は親父自身の自己実現のための道具だったりの側面もあったけど、やっぱりそれだけじゃないってのもほんとだと思う。うまく意思疎通できなくてものすごいタイムラグがあるんだけど、こっちのいうこと時間差で伝わったって思うこともあんの、あとで思い当たるっていうか、長いスパンで考えたらそれなりに」
司くんはそう否定する。
「ヒロのさ、一番理解してもらいたい相手にわかってもらえない苦しみ、みたいなのはわかるし共感できる部分でもあるんだけど。あと、なんか向こうが激昂して殴ってくると、逆に心のどっかで勝ったって思っちまうみたいな不可解な感情の動きとかさ。相手の感情の発露を実感してやっと安心するみたいなヘンな感覚?」
あたしたちには殴られて育ってないって言ってた司くんだけど、莫さんにはすごいストレートにぶっちゃけてる感じ。ほんとこれ、どういうタイミングであたしは起きればいいんだろう。
「ただ、ヒロの場合、相手のレベルが凶悪すぎる──と俺は思う。愛情を支配の道具にする、っていうか言い訳にしようとする思考回路は似てると思うよ、国原さんと親父。けどいつだって親父の内側にはどこかに葛藤があったように見えたし、うまく言えないけど、親父の自認だと、正しい場所へ俺を導いてるような感覚なんだろうなあ、とも思うんだ。自分に対する言い訳が必要な分、まだ可愛げがあるとでもいうのかさ。国原さんはそういうの全部ぶっちぎっててもう、向こう側に振り切っちゃってるような感じ? 人間の姿をしてるけどどっか人間じゃない、本来人間の持つ血肉の通った心を持たないみたいなさ。葛藤してるような姿すら嘘くさい感じがする。国原さんの場合、ヒロのためっていう方がむしろ言い訳で、やってることはつまるところ全部国原さん自身のためなんだよ」
「君のその観察は、おそらく的確なんだろうとは思うが……」
莫さんは、考え込むようにゆっくりとした口調になる。
「それは君がお父さんを知っていて、どこか似た2人を比較できるからこそ気づけた違和感とも言っていい。普通、人は他人のことをそこまで注意深く見ないから、なかなか違和感に気づけないものだ。直接被害にあった──かおりさんのような立場に立たされた場合を除けばだがね。裕希くんにしろ、このあと下手に国原さんに会ったらほだされて、結局もとのさや、ってことになる可能性もあると、僕は考えているよ。でなくとも人間の心理として、一度好きになった人を悪くは思いたくないものだからね」
「ほだされるとかって以前に、完全にまだ気持ちが残ってると思ったし、むしろ国原さんがかおりさんのことを、自分の勘違いだった、疑ってすまなかった、ぐらいに言えば、もうその瞬間元さやかなって思う。かおりさんの件以前にも明らかにおかしいことを言われたりされたりしてるのに、そこはなんも響いてないんだろうなってとこがすげー心配」
「まだ影響下にあって、そこから完全には抜け出すことができていないんだろう」
「なんか見てても危なっかしくてさ……。あのさ、お京さんも言ってたけど、このまましばらくヒロを莫さんとこに置いとくってわけにはいかねーの? 出入りのときに待ち伏せされるのが危ないなら、いっそ復調するまで閉じこもって出入りしなきゃいーじゃん」
「いや、正直なところ、彼は僕の手に余る。国原さんのところから場所が近すぎることを除いてもね。はっきり言って、カウンセリング案件だと思うな」
「カウンセリングかあ……。あれも結構クリニックなんかによって質に差があるような感じだよなあ……」
「良し悪しがどうとかいうよりも、合う合わないは大きいだろうね。カウンセラーと患者も人間同士なんだから。それでも彼らは独自のメソッドを持っているからね。素人とは違うよ」
「莫さん今回のことっていうか、ヒロに対しては、なんていうかクールなんじゃね? ちょっと距離取ってるっていうかさ」
「タオ、君は大きな誤解をしているようだが、僕は慈善事業家ではないんだ。誰でもかれでもを喜んで積極的に助けて回ってるわけじゃない」
「いや、そういう意味で言ったんじゃない。そういう意味では十分手を尽くしてるだろ。そうでなくて、つけ込まねーの?って話。国原さんに約束したからってわけじゃねーよな? ヒロみたいな毒っ気のないフツーっぽいやつって、結構莫さんの好みだろ?」
「……まったく京平といい君といい、人をなんだと思ってるんだ」
一瞬の間が開いて、莫さんはぼやくようにそう答えた。司くん、不満そうな莫さんの言葉を、けろりと受け流す。
「いや、フツーに人だと思ってるけど? つーか、お京さんが言うほど莫さんが肉食系でないことも、歴代のカレシとまじめなつきあいをしてきたことも、俺知ってるけどさ。前のカレシと別れてから、今回一人が長くね?」
「いや、そうでもないだろう」
「もしかして、ヨシキさんのこと引きずってる? それか待ってる?」
「……別にそういうわけじゃない」
「てか、実際あの人、忘れたころに突然ふらっと戻ってきそうだよな。すんげーマイペースな人だったし」
「……タオ、君は当然知っていると思うけれども、人間は恋をしないと死んでしまう生き物では別にないからね」
「逆に俺、どっちかっていうと人間はそういう生き物じゃないかって、なんか思い始めてるとこだけど、今はそういう一般論っていうか哲学的な話じゃなくてさ」
あたし、聞いてて気づいた。莫さん、さっきからちょっと歯切れが悪い。答えたくない質問なのかな? 司くん、あたしに対してもそうだけど、結構ぽんぽんなんでも無遠慮に質問してくるよね。
ヨシキさんって、莫さんの元彼さんの名前かな? というか、この状況まじめにかなりマズいというかよろしくない。よく知らない相手のプライバシーを盗み聞きしているというシャレにならない事態になりつつあるんだもの。
「私のことはさておきタオ、君は裕希くんに入れ込み過ぎない方がいい気がするんだが」
「なんで?」
即座に司くん、言い返す。
「莫さんもさっき言ってたじゃん。俺にとってはなんか他人事じゃねー気がして放っとけねーし」
「君の方は親切心から手を貸しているだけでも、裕希くんの方はそうは受け取らないかもしれない。僕らは──ゲイっていうのは、同性に恋をしてしまう生き物だから」
ちょっと間があいて、司くん、うーんと唸った。
「そういうことって起こりうる? 正直まるで想定してなかったんだけど……。てかヒロ、もう恋愛はこりごりだってこぼしてたんだけど。第一ヒロにだって好みとかあるだろうし……」
「うっかりノンケに惚れるっていうのはゲイにはありがちだよ。特に若いころはね。話してて話しやすい、気が合うっていうのがそのまま恋愛感情になることもある。あと、懲りてるからって恋に落ちるのを避けて通れるものでもなくてね」
「……こっちから線引きをするとか、距離感に気をつけるとか、そういう必要があるって話? うう……難しいな」
「うん、そうだね。正直、君にはそういうのは向いてないと思う。相手や相手との関係性をコントロールしようとする行為そのものが君は嫌いだろう。だから、やりづらいっていうより無理なんじゃないかな」
「そうかな? 関係性の話でいうと、今まさに鞠乃ちゃんとの関係を友だちってやつにとどめおくってのが現在俺の課題なんだけど」
「そっちは君自身の気持ちをコントロールするという話だろう? それはそれで大変じゃないかとは思うが、相手をコントロールしようとすることとは、まったく別の問題だ。繰り返すが、相手をコントロールする行為は君には向いてないと思うよ。ただ、もう少し具体的な話をすると、タンデムであちこち連れまわすっていうのはどうだろうって話でもあるんだが」
「タンデムまずい?」
「まずいと思う」
黙り込んだ司くんに、莫さんは言った。
「身体が密着するからね」
「服着てんのに?」
「なら逆に聞きたいんだが、君はきょう鞠乃さんを後ろに乗せててなんとも思わなかったのかい?」
「うーん……えーと……」
言葉に詰まる司くん。いや、司くん、きょう思いっきりフツーだったよ。そもそもバイクで安全運転心がけてるときに余計な事は考えてないと思う。
ところが司くんの返答は、あたしの予想と違ってた。
「考えないようにしてた……とは思う。あんま考えちゃ、鞠乃ちゃんに悪いし? けどどっかで意識はしてたかも。こっちに回してきた腕が細っこいなーとか、小さな手だなーとか。あと、後ろからしがみついてきたとき、背中に胸が当たって、やーらかいなー、とか?」
うん、ただいま本日2度目の、どうしようって状況。いや、3度目だっけ。もうよくわかんない。
本人に向かって言えば確実にセクハラになることを、司くん、莫さんにぶっちゃけてる。そうしてあたしは、起きて話を聞いてるよ、って、どんどん言い出しにくくなっていく。これ一体なんの罰ゲーム?
目が覚めているせいか、肩までかかった羽毛布団がさっきから熱くて、手足を外に出して冷やしたくなってきて、だんだん我慢できなくなってきている。変な寝汗が出てきた気もする。
「ああ、もう!」
突如として司くん、大きな声を出した。
「俺、もう鞠乃ちゃん乗っけて走れないじゃん! こんな風に意識しちまったらさ」
「タオ、鞠乃さんを起こしてしまうぞ」
すかさず莫さんが、そう注意する。
「やべっ」
司くんが椅子から立ち上がって、こっちに歩いてくる気配がした。
「起こしたかな?」
そう言われてあたし、ゆっくり目を開ける。内心、やっと起きられるってほっと胸をなでおろしながら。




