22 襲来者(1)
裕希くんに続いてあたしたちも、莫さんの書斎に招きいれてもらった。書斎というか、プチ図書館ね。四方の壁が本だらけで、小さな窓の下のローチェストの中もハードカバーの本でいっぱい。辞書、画集、法律書、写真集、エトセトラ、エトセトラ。ありとあらゆる種類の本。ローチェストの上には散乱したスケッチブック。カンバス、アクリル絵の具、L字型の金属製のスケール、巨大コンパス、何かの設計図のようなものを重ねた書類。雑然としているけど、不思議と生活臭は乏しい感じ。
「退屈しのぎになる本があれば、持っていって読んだらいい」
あたしが本棚の一角を眺めてたら、莫さんはそう声をかけてきた。
「画集はあちらの隅のあたり。グスタフ・クリムトや、エゴン・シーレもあるよ」
「どうして……」
ちょっとびっくりして振り返った。莫さん、どうしてあたしの好きな画家を言い当てるの? 司くんが言った? ううん、クリムトやシーレの話は司くんともしてない。
けど、次に莫さんの口から出た言葉は、あたしが全く予想もしなかったものだった。
「実はきのう、梓さんにここに来てもらって、そのときに君の話が出て……鞠乃さんがクリムトに傾倒していることだとか、どんな絵を書くかだとかを話してくれたんだ」
「えええーっ???」
梓が? 莫さんのところに? どうして? なんのために? それもきのう? 一瞬思考がすべて停止してしまったみたいで、同じ言葉が果てしなくリフレインしながら、ぐるぐるぐるぐると頭の中で回っている。
だって梓、そんなこと一言だって言ってなかったのに……なんて考えがちらと頭をかすめ、きのうのきょうじゃ知りようがなかったことに思い至る。きのうは梓に会ってないし、夕べはメールもしてなかったから。
それにあたしだって、きょう、こうやってここに来ていること、梓にことわりを入れてるってわけじゃないんだし……。
そういう風に思い直しながらも、正直あたしの心中は穏やかじゃない。だって今あたしがここにいるのは、かおりちゃんにどうしてもって頼まれたからで、莫さんに招かれたわけでもないし話をするためでもない。どうして梓が莫さんの家を訪ねてくるわけ? 梓と莫さんのどこに接点があって、なにをしに来たの?
あたしの心の中を知って知らずか、莫さんはふわりと笑って言った。
「きのうの夕方ごろ、梓さんが店の方に電話をくれてね。ゆっくり話がしたいっていうから、閉店後にうちまで来てもらったんだ」
喫茶店の閉店って9時ぐらい? 梓のお母さんはほとんど夜中まで仕事から戻ってこない日が半分ぐらいだったから梓の門限はないに等しい。でも、そんな時間にふらふら外を1人で歩き回るのも、ほとんど知らない男の人の家に行くのも(いや、あたしもきょうは人のことは言えない状況なんだけど)、なんかとんでもない不良娘って感じじゃない?
だけどあたしは知ってる。梓はあんまり人目とか常識とか気にしないの。気にしないっていうのは全く考えないとかいう意味じゃなくて、知っててもあえてそれに逆らうことを平気でするっていうのか。そんなものに振り回されている人に対する梓の視線はとっても冷ややか。でも彼女は別に不良娘じゃないし、繁華街をウロウロして補導されたこともない。ただ気ままに行動してるだけ。
あたしと知り合う前、梓は多分1人だった。授業の中休みに一緒にトイレに行くような友達は絶対いなかっただろうと断言できる。病気で学年がずれたこともあるだろうけど、それを差し引いてもずいぶん大人びた女の子で、1人で行動するのが好きで、馴れ合いで人とつき合うのが苦手で、誰かから無意味に仲間扱いされるのが嫌いで……。
そこまで考えて、あたしはもう一度目の前の背の高い男の人を見上げた。なんていうか、一瞬ひらめいたものがあったの。
あたしが思うに、莫さんもあんまり常識的な大人とは言いがたい……気がする。ゲイだっていうのはこの際横に置いておくとしても、夜中に1人で歩いている小学生を拾って、警察にもどこにも連絡しないまま1週間だか10日だかそばに置いて、警察沙汰になった後でもその子供が自分のところに頻繁に出入りするのを許してて、それでずっと友達づきあいしてる。何年も。考えてみたらずいぶん変な大人だわ。
だから夜中に女子高生が1人で訪ねて来ても平気で中に上げちゃうし、もしそれを誰かに見咎められたとしても多分気にしない。
あたしがひらめいたのは、ある意味梓と莫さんが同じ種類の人間かもしれないってこと。自分の中に確固とした規範やルールを持っているから、お仕着せの規範に黙って従ったりしない。お仕着せの規範の持つ圧力や影響力を知ってて、それに飲み込まれることを潔しとしないの。
そう考えながら水曜日の喫茶店での会話を頭の中で辿って、気づかなかった事実に思い当る。
それは、梓が莫さんから受けた印象が、あたしが受けたものよりずっと強かったんじゃないかってこと。梓は司くんがひどい目に遭ってるんじゃないかってずっと気がかりで、なんとかして助け出したくて、手を差し伸べたくて、でも、どうにもならなくて……。
莫さんは梓にとって、自分の代わりに司くんを助けてくれた人なのだと思う。自分がやりたかったことを代わりにやってくれた人。しかも、なんの見返りも求めず、自分の地位や職業を犠牲にしてまで。
「梓は何を話しに──何を聞きに来たんですか?」
湧き上がった疑問を胸にそう訊ねたあたしに、莫さんはもう一度ふわりと笑った。
「いろいろ聞かれたよ。主にタオのことでね。事実はどうだったかとか、彼のお父さんについて知っていることがあれば教えてほしいとか、私がタオをどう思っているかとか……」
そう。それ、ちょっとあたしも聞きたい気がした。
莫さんにとって司くんは恋愛対象にはならないのかな? 同性愛者にとってすべての同性が恋愛対象だなんて乱暴なことを言うつもりはないの。でも、あたしの目から見ても司くんは率直で飾らない性分でさっぱりしてて人懐っこくて、いわゆる人好きのするタイプだと思う。おまけに莫さんには手放しで懐いてるみたいだし。気になったりしないんだろうか。
もちろん人にはそれぞれ事情があるわけだから、例えば他に好きな人がいてそれ以外の人間はまるで眼中にないってこともありうるわけよね。(そしてあたしは司くんとは正反対の、素直でなくて人に壁を作りまくっててある意味人間嫌いの梓にまいっちゃってるわけだし)
あるいは莫さんは友人と恋人をくっきりと区分けできる人なのかもしれない。そう、あたしと違って。(あたしには一番大好きな友人への友情と恋心の境目がないんだもん)
考えが自虐的な方向へ向かいそうだったので、あたしは首を振って頭を切り替えることにした。
「なんだか偶然ですね。あたしもきょうの昼、司くんからいろいろと話、聞いてたところだったの」
ついでに司くんのお父さんとお母さんが、実はとっくに離婚してたなんて話も聞けたけど。
そのとき、向こうの壁際で男性用ファッション雑誌を開いてめくっていたかおりちゃんが、こちらを見て声をかけてきた。
「これ、あっちの部屋に借りてっていいですかぁ」
「どうぞ。何冊でもまとめて持っていっていいから」
莫さんはそう答えてから、コミックスの一冊を手にとって物色している裕希くんにも声をかける。
「その『海猿』なかなか面白いよ。この部屋を君の寝室にあてるから、適当に何でも出して読んでていいからね」
それから莫さん、もう一度あたしの方に向き直った。
「実は偶然はもう1つあってね……」
次の言葉を聞いた直後の出来事は、あたしにはスローモーションのようで、それでいてひどくあやふやになってしまったの。正確な言い回しは覚えてない。だって莫さん……あたしがすごく動揺するようなことを言ったんだもの。
きのう図書館で、偶然あたし、司くんに会って、おしゃべりして、一緒に缶ジュースを飲んで、話の流れで司くん、あたしに言った。
俺とつきあってみない?
きのうの晩、梓はここに来て、おしゃべりして、莫さんの入れたコーヒー飲んで、それでなりゆきで……そういう話になったって。
梓が莫さんに言ったんだって。私とおつきあいしてもらえませんか……って。なにをしゃべってどういうなりゆきで、どこからどう巡ってそういうことを梓が言ったかはまるでわからない。莫さんは説明してくれたような気もするれど、あたしはそれを順序だてて理解することができなかった。
莫さんが自分のセクシュアリティについて説明してもう一度確認すると、梓は頷いて、それは全然構わないって言ったんだって。私はただ、あなたに興味があるだけだから。そんな風に梓が返してきて、結局、時々ここに遊びに来ていいよってところに話が落ち着いたって。そんな内容が、おぼろげに頭に入っただけ。
なんで?
どうして?
息が止まりそうで、めまいがしそうで、疑問符ばっかりが頭の中を浮遊する。足元がふらふらして、そこに立っているのも苦痛なぐらい自分自身が頼りなくなって、ふわふわでぺっちゃんこ。
私はただ、あなたに興味があるだけだから。
いかにも梓の言いそうな台詞。無機的で、ちょっと突き放した感情表現。だけど、そんな風に醒めた言い方をしてても、ほんとうは梓は莫さんのことを好きになったのかもしれない。もしかしたら一目惚れかも。だってパパのいない梓には多分潜在的にファザコンっ気があるっていうか、いや、30ぐらいの男の人をつかまえてファザコンがどうのって連想はすごく失礼かもしれないけど。
不意にインターフォンが鳴った。狙い済ましたように最悪のタイミング。
この部屋にもインターフォンはついていて、莫さんは壁際の受話器を取り外すと応対する。
「はい。ああ、なんだタオか」
こころもち緊張した声が、気の抜けた溜息に変わる。
「鍵、開いてるから入っておいで」
司くんだ。司くんも、今の話、莫さんから聞いてるのかな。司くんはどう思う? 司くんは莫さんとは7年越しのつき合いで、莫さんのことをよく知ってるんだよね。この間の話だと莫さんは女の人を好きにならないって言ったけど、それって絶対? ほんとにほんとにありえないことなの?
あたしは莫さんに続いてふらふらとドアをくぐり、書斎からリビングに出た。
振り返ってドアを閉めるとき、視界の端に、かおりちゃんの広げたファッション雑誌を横から裕希くんが覗き込んで、2人でヘアメイクについてあれこれ言い合っているのが見えた。
司くんは頭のてっぺんからつま先までずぶぬれだった。レインスーツを着てても、嵐がひどくて川を泳いできたのと変わらない状態になっちゃったんだって。
入り口の床に腰を下ろして、レインスーツの上着を脱いでタンクトップ1枚になって、莫さんに手渡されたバスタオルで滴の落ちる頭を拭きながら、司くんはあたしを見た。
「鞠乃ちゃん、来たんだ。てことは外泊許可がおりたの」
そんなオオゲサなものじゃないんだけどね。
「あいつ、もう来た?」
「いや」
司くんの質問に、莫さんが首を横に振る。
「10分ほど前に店番をしてる京平たちから連絡があったよ。今こっちに向かっているそうだ」
「じゃ、もう着くじゃん」
と、司くんは、莫さんと裕希くんのもの以外は靴も傘もきれいに片付けられている玄関を見下ろして聞いた。
「ずぶぬれついでにシャワー浴びたかったんだけど、俺も鞠乃ちゃんたちと隠れてた方がいい?」
「君は隠れなくていい。第一隠れようったって今からじゃ間に合わんだろうが。玄関には足跡と水溜りが出来てるし、バイクは駐車場に停めたんだろう?」
「わりぃ、バイクのことは考えてなかった」
言いながら司くんはうつむいて、濡れたブーツから力任せに足を引き抜くと、頭を拭いたのと同じバスタオルでボトムの上から無造作に水を拭って、ついでに足を拭いた。
莫さんは司くんの脱ぎ散らかしたものをひょいとかき集めて、足を拭き終わったバスタオルもぶんどって、脱衣所(多分)のドアを開ける。
「やっぱシャワー貸して。あと着替えも」
「ああ、適当に出して来てろ」
「ついでだから俺があんたの恋人の振りをしてやろうか」
莫さんの開けたシャワー室のドアをくぐって、司くんは振り返り、洗濯物を莫さんからぶんどり返しながら言った。
「その嫉妬深い美容室のオーナーに、裕希さんとあんたの関係を変に勘ぐられたりせず、効率よく追い返すためにさ」
莫さんは一瞬迷ったみたいな顔をしたけど、すぐに小さく首を振った。
「いや、ああいった手合いはえてして非常に疑り深い。こちらがそう思わせようとするのと反対のことを勘ぐってくるタイプだよ。出来過ぎた状況をお膳立てするよりも、君は裕希くんと僕が2人きりの状況になるのを避けるために急遽呼んだ友人、といった役割のままの方がいいだろうな。何か聞かれたときのために、そう口裏を合わせておこう」
「なるほど」
莫さんの説明に、司くんは感心した顔で頷いた。
「かおりさんがどんなに否定しても疑われてたって言ってたもんな」
そのときだった。すぐ近くのドアで、チャイムが大きな音で鳴り響いた。




