21 鞠乃の外泊(2)
莫さんの携帯がメールを受け取ったのは、ちょうどあたしが飲み終わった紅茶のカップをキッチンに持っていこうと立ち上がったときだった。カウンター越しに空のマグを2つ、かおりちゃんが受け取ってくれたところで、携帯を切った莫さんが言った。
「カノンのオーナーが今しがた京平のところに現れたらしい」
「こっちに来るかしら」
かおりちゃんはソファで眠っている裕希くんを、心配そうに見やる。裕希くんは、ぐっすり眠っていて起きる気配がない。
莫さんはかおりちゃんの手からマグを取り上げて、シンクに置きながら言った。
「彼は最初に斉藤さんのアパートに寄ってきたらしいよ。京平からここの場所を聞き出してやってくるようなら、斉藤さんは絶対に姿を見られないようにしなければならないね」
莫さんの言葉にかおりちゃん、少し青ざめて頷いた。
「オーナーはやっぱりヒロくんとあたしのこと、疑ってたんですね」
あ、斉藤さんっていうのはかおりちゃんのことね。かおりちゃんの苗字を知ってからは莫さん、かおりちゃんのことは斉藤さんって苗字で呼んでいる。あたしのことは苗字を知っていても文月さんとは呼ばない。その基準って何なのかな? あたしが未成年だから? でも、裕希くんのことは春日くんと呼ばずに裕希くんと呼んでいる。裕希くんは21歳で、22歳のかおりちゃんとは1個違うだけなのに。
「そうみたいだね」
「そんなことあるわけないのに。あるわけないって知ってるはずなのに」
かおりちゃんが言うと、莫さんはこう答えた。
「彼は女性の好みそうな容姿をしているからね」
莫さんやっぱりさっきのあたしたちの話、聞こえてたのかな? 確かさっきは、司くんのルックスがどうの、兄貴の見てくれがどうのって話を延々してたんだよね。
けど、かおりちゃん、一度口を引き結んで莫さんをきっと見上げ、早口で言った。
「肝心なのは女性がヒロくんをどう思うかじゃなくて、ヒロくんが女性をどう思うかです」
「そうだね」
莫さんは頷いた。
「普通の人は、ある程度大人になっていたらその辺りの線引きはできてくるんだろうが、カノンのオーナーの場合は、裕希くんの相談に乗ってくれる人がいることや、助け手が存在することそのものが気に入らないのかもしれないね」
「あたし、ずっとオーナーがどういった人かよくわからなくて、不気味でしかたがなかったんです」
かおりちゃんは、不安げな顔で、
「その……あの人、あたしのことを悪くいうのならともかく、わざとヒロくんの評判を悪くするようなことばかり、ほかの従業員の前で言うんです。かおりちゃんはあいつに騙されているんだ、かおりちゃんのような素直で優しい子は騙されやすいし、つけこまれやすいから気をつけなきゃ駄目だよ、なんてみんなの前で言ったんです。あの、優しそうな顔で、優しそうな声で、そう言うんです。ヒロくんがそんな子じゃないのは、あたしよりもあなたのほうがよくご存知じゃないですかって言い返したら、あの人、あたしの肩をぽんぽんと叩いて、若くて純粋なのはいいことだけど、人を見る目は養わなければね、って……。最初にカノンに勤めはじめた頃、あたし、お京さんがオーナーのこと苦手だって言ってたの聞いたときは、お京さんが好き嫌いの激しい人なんだって、むしろお京さんの問題だと思ってたんだけど、その……今は……人のいないところではあたしのこと、泥棒猫とか性悪女とかさんざん罵っておきながら、人前だと妙に優しげで親切そうに振舞うオーナーが、薄気味悪くて、怖くてしかたないんです」
話し始めると、かおりちゃんは止まらなくなってしまったみたい。黙って聞いている莫さんに、あれこれ言い募っていく。
「普段からヒロくんが遅刻の常習犯だったり、当番の日を無断ですっぽかしたり、朝から酔っ払ってお店に出てきたりっていうの、みんな見て知ってるから、オーナーがヒロくんのこと怒鳴っても、少々暴力振るっても、ヒロくんの態度があまりにも目に余るから仕方がないんだって納得してるみたいで……それがまた気味悪くて……ヒロくんがどんなに追い詰められてそんなになっちゃったか、あたしとサトミ以外誰も気付いてないみたいで……。国原さんもあんな寄生虫追い出せばいいのに、身寄りがないとかなんとか言われて思い切れないんだろうね、とか他の人が話してるの耳にしたりで……あたし、それがどんなに事実からかけ離れてるか気になってしかたがないのに、そのことについて言葉に出して話せる人もいなくて、当のヒロくんともあんまり話もできないし、ほんっと怖くて怖くて……」
そのとき、どこかで携帯の呼び出し音楽が鳴って、かおりちゃんは飛び上がった。音はソファに置き去りのままのかおりちゃんのハンドバッグの中から聞こえていた。
小さな音だったにもかかわらず、眠っていた裕希くんが不意に目を開ける。
彼ははじかれたようにがばっと上体を起こしたあと、まだ自分がどこにいるのかわからないといった顔で、ぼんやりとあたりを見回した。ハンドバッグを取りにソファに戻るかおりちゃんの姿を見つけると、少し安心したような表情になって、ぐったりとソファの背もたれに寄りかかった。
かおりちゃんはバッグから携帯を出して、表示画面を確認して、サトミからだわ、とつぶやいてから電話に出た。しばらくかおりちゃん、頷きながら、小さな声で、うん、うん、って繰り返していたけど、電話を切って、裕希くんに向かって言った。
「サトミ、ちょうど無事にアパートに戻ったところだって。しばらくカレが泊まってってくれることになったから、ヒロくんは余計な心配しないで自分のことだけ考えてねっていうのが伝言。それと、オーナーはサトミが見た感じでは、特に怒ってなかったって。お京さんがヒロくんを連れ出したいきさつを話したら、案外冷静に聞いていて、迷惑かけたねって謝ってきて、助けてもらって感謝するよとかお礼を言われたんだって。けど、サトミ、オーナーからいろいろ言われて困ったとも言ってた。あたしに連絡取ってくれとか。それで、もしも店を辞める気でいるのだったら、思いとどまるように説得してくれとか。内輪もめに巻き込んで悪かったし、職場の空気が合わなくて大変なのもわかるけど、これ以上人が辞めたら残ってるスタッフにしわ寄せが来て大変だから、みんなのことを考えて、代わりが見つかるまで持ちこたえてくれるようお願いしたいって伝えてくれって言われたんだって」
かおりちゃんはちょっと苦笑して、
「みんなのこと考えてって言われてもね。どうしてあの人ってこんなときに、急にマトモなこと言い出すのかしらね。まるであたしがワガママで辞めようとしてるみたい。でも、どのみちこのまま飛んじゃうわけにはさすがにいかないし……火曜日は出勤してみようかと思ってはいるんだけどね」
「それは……かおりさん……」
なんと返事していいかわからない様子で口ごもる裕希くんを前に、かおりちゃんはにっこり笑う。さっきおびえた顔して莫さんにあれこれ言い募ってたのがウソみたい。携帯の音で飛び上がったことなんて、おくびにも出さない。かおりちゃん、役者だなあ。
「大丈夫よ。それに、オーナーがどういうつもりでいるか、あたしなりに探ることができるかもしれないし。お店には他にも人がいるし、サトミもいるし、プライベートには立ち入らないように気をつけるから平気」
「俺……ほんとに迷惑かけて……なんていって謝っていいか……」
言葉をつまらせながら頭を下げる裕希くんに、かおりちゃんは言った。
「ヒロくん、顔を上げて。ねえ、ヒロくんほんとにあたしに迷惑かけて悪いと思ってる?」
「え?」
「ほんとにほんとに、本気でそう思ってるんだったら、絶対、絶対、逃げ切るのよ。妥協しないで。あなた、自殺未遂を起こしたのよ。自分の気持ちがどれだけ切羽詰ってるのか、自分でちゃんとわかってあげなきゃだめよ。オーナーに連れ戻されて、ずるずると元の鞘に収まったりしないでよ。約束して」
「それは……」
裕希くん、言葉に詰まる。
目を閉じて、搾り出すように裕希くんは答えた。消え入りそうな小さな声。
「こんなこというと、かおりさん、怒るかもしれないけど……その……実を言うと、俺、自信がなくて……」
何か言いかけて黙り込んでしまう裕希くんに、かおりちゃんは先を促した。
「怒らないから言ってみて」
けれどもヒロくんは、目を閉じたままうつむいてしまう。
「言って、ヒロくん。考えてること、溜め込まないで」
しばらくの沈黙のあと、裕希くんはほんとにほんとに小さな声で、ささやくように言った。
「もし国原さんがここに来て……帰ってくるように言われたら……俺、断れるかどうか……」
裕希くんは一度声を詰まらせた後、かおりちゃんに目で促されて、今度は少しはっきりとしゃべり始める。
「国原さんは、俺のこと、共犯者だって言うんです。自分のことを本当にわかっているのは俺しかいないし、逆に俺のことをわかっているのも自分だけだ……って。あの人、怒ると怖い人だけど、人のすることやなんかはすごくよく見ていて、なんか、全部見透かされているような感じで……」
裕希くんはもどかしげにそう言葉をつないだ。
莫さんが新しい紅茶を入れたマグを持って、2人のところに歩いていって、裕希くんのテーブルの前に置いた。ブランデーの匂いのしない、ただのホットミルクティー。
「国原さんがここに来ても、裕希くんはきょうは顔を出さないほうがいいね」
その言葉に思わず顔を上げるかおりちゃん。莫さんは重ねて言った。
「今、メールが届いたよ。国原さんがお店を出て、こちらに向かっている。道に迷わなければ10分ぐらいでこちらに着く。紅茶を飲んだら裕希くんは書斎に入って鍵をかけているといい」
「家に上げるんですか?」
思わず聞き返したかおりちゃんに、莫さんは微笑した。
「まさか門前払いを食らわせるわけにはいかないだろう」
「えーと……玄関にあたしの靴。傘は……?」
「大丈夫。見えない場所に収納したから。斉藤さんと鞠乃さんも部屋に行って隠れていたらいいよ」
かおりちゃんは莫さんの言葉に、大きく目を見開いてこっくり頷いた。
莫さんは裕希くんに、紅茶を飲むように促した。




