19 カノンのトラブル(2)
用意したコーヒーを載せたトレイを手に持ったまま、こちらに背中を向けたお京さんとかおりちゃんの背後であたし、立ちすくんでた。そうしたら、カウンターに残って用具を片付けていた司くんが声をかけてくれる。
「よかったらお京さんも座ってコーヒー飲んでよ。そんで、そちらの人も」
「ああ、ありがと、タオ。かおりちゃんも座りましょ」
お京さんに促されて、裕希くんの向かいに座ったかおりちゃん。テーブルに3つのマグを置いたあたしを見上げて、ありがとう、と言った。シンプルなデザインのコットンシャツの襟元で、淡い乳白色の石(多分ムーンストーンだと思う)をはめ込んだ細いチェーンが揺れている。指には繊細な金細工のファッションリング。かすかに漂うフローラル系の香水の香り。ふと、兄貴が以前つきあってた子を連想した。兄貴って本来は、化粧っ気の全くない梓みたいな子より、こういうお洒落っぽい感じの子のほうが好みのはずなんだけどな。
お京さんもかおりちゃんの隣に座る。
「ありがと、鞠乃ちゃん。ヒロくんもコーヒー飲みなさいな」
裕希くんは、無言で小さく頭を下げた。
いったんはカップに視線を落としたかおりちゃんだったけど、すぐにもう一度あたしを見上げて、なぜかしら目を見開いて、じーっとこっちを見た。
「あの……ええと……かおりさん? お砂糖とミルク、あった方がよかったですか? だったら、すぐに持ってきますけど」
その言葉を聞いているのかいないのか、かおりちゃんはおもむろにバッグから細い銀縁のメガネを出してきて掛け、もう一度、覗き込むようにあたしを見た。
「間違ってたらごめんね。あなた、文月くんの妹の、鞠乃ちゃんじゃない?」
「え? あの……」
全然見覚えのない人。兄貴の知り合いにこんな綺麗な女の人、いたっけ?
「やっぱりそう? こんなとこで会うなんて、びっくり。ここの喫茶店でアルバイトしてるの?」
きょとんと見返すばかりのあたしに、かおりちやんは可愛らしい仕草で小首をかしげる。
「覚えてくれてない? 文月くんの高校のときのバイク仲間よ。一度、一緒に諏訪湖まで連れて行ったことあったんだけど。鞠乃ちゃんを高橋くんのバイクの後ろに乗っけて」
あたし、記憶を頭のどこかからひっぱりだそうと四苦八苦してみたけど、やっぱりダメだった。兄貴のバイク仲間については、そもそもちゃんとメンバーの顔を覚えてなかった気がする。高橋さんって名前にすら心当たりがない。あたしが後ろに乗ってたってことは、あの、のっぽでぼーっとした人のことかな。
「ゴメンナサイ、覚えてません」
小さく頭を下げたあたしに、かおりちゃんは微笑みかけた。
「鞠乃ちゃん、小さかったもんね」
「小さかったってほどじゃありませんけど。確かもう中学生になってたと思うし」
「確か中学1年だっていってたっけ。今、幾つになったの?」
「17歳です。高校2年生」
あたし、そう答えながら、頼りない気持ちでかおりちゃんを見返した。何も覚えてないっていうのは、なんとも心もとなく居心地悪いもんよ。
「文月くんは元気? 今もバイク乗ってる?」
前半の質問には頷いて、後半の質問にはかぶりを振る。
「残念ね。でも、実はあたしもそうなの。通勤のために、軽自動車に切り替えたのよ」
「鞠乃ちゃん、かおりちゃんと知り合い?」
お京さんが聞いてきた。かおりちゃんが頷いて答えた。
「鞠乃ちゃんのお兄さんとクラスメートだったんですよ」
「ま、それは奇遇ねえ……」
「……あたしは全然覚えてないんですけど」
小さな声で、そう答える。梓に会ったときの司くんの戸惑いが、今は少しだけわかる。全然記憶にない人に知り合いだっていわれるだけでこんなに妙な気分になるんだから、その知らない人が、双子のきょうだいだったりしたら、きっともう一種のパニックだよね。司くん、あのとき、よく落ち着いていられたな。
「ま、それはともかく、あんたたちの避難場所よ」
お京さんは、お店の壁にかかった時計に目をやる。もうじき6時半。
「私は思うんだが……」
と、莫さんが口を開く。
「裕希くんはともかく、かおりさんは、できれば自分の家に戻ったほうがいいね。そして、裕希くんとは何も関わりがありませんって顔をしていたほうがいい」
「それが、そうもいかないのよ。前回の家出がそもそもかおりちゃんがらみだったからね。オーナーと大喧嘩した裕希くんが、かおりちゃんのところに転がり込んだのよね」
お京さんに促されて、かおりちゃんは頷いた。
「以前からヒロくん女の子が全然ダメだって聞いて知ってたから、女友達ぐらいのつもりで家に上げたんだけど、オーナーはそうは思わなかったみたいで、そのときものすごくモメたんです。ただ、その日は他にも女友達が来てて、みんなでたこ焼きパーティーしようっていって集まった日だったから、オーナーが夜中に怒鳴り込んできたときも、2人っきりって状況じゃなかったから……でも、あのあとオーナーはほんとに大荒れで大変だったんですよ。だからあたし、男友達の1人にボクシングやってるやつがいるんだけど、その人に連絡とって、こういう事情でややこしいことになってるからカレシのふりをしてくれないかって頼んで、しばらく一緒に行動してもらったぐらい。それでもまだ、国原はあたしのこと疑ってるみたいだから、お店でも普段はなるべくヒロくんと口を利かないようにしてるんだけど」
聞けば聞くほどへビィな状況のような気がしてきた。お京さん戻ってくるようにお願いされてるみたいだけど、これはちょっと二の足踏んじゃうと思う。
「その男友達っていう人に、また頼めないかな」
と、莫さん。
「きょう来てもらうようにお願いして家にいてもらえば、オーナーがまたかおりさんの家に怒鳴り込んできたとしても、怖くないと思うんだが」
「なに言ってんのよ莫」
お京さんが即座に反対する。
「その男がかおりちゃんに下心持っててオオカミになったらどうすんのよ。あんた責任取れるの? ヒロくんやあたしやあんたとはわけが違うんですからね」
「それは大丈夫なんだけど、今は頼めないんです。今、その友達には本当につきあいはじめた相手がいて、あたしも2人のこと応援してるから……」
「しかし、君が家に戻らないとなると、オーナーが君のところに連絡するなり見に来るなりしたとしたら、確実に疑われるよ」
「それはもう、覚悟できてます。お店もやめて、どこか他のところで仕事を探そうと思ってます」
そう、かおりちゃんは答えた。
「あたしにも、あたしたちにも責任はあるんです。ヒロくんのこと、こんなになるまで見ないふり、知らんぷりで来たから……。それに、さっきお京さんが電話くれなかったらと思うとあたし……」
と、かおりちゃんは少しためらってから、ゆっくりと静かな声で言った。
「サトミが2階の様子が変だって言ってきたときも、あたし、自分で見に行くのは嫌だから知らんぷりして、結局その役をサトミに押し付けたんです。怪我をしたヒロくんを前にして考えてたのも、自分のことだけ。もうこれ以上かかわりになってオーナーに睨まれるのはたくさんだって……病院に連れて行こうなんて、あのときは全く頭に浮かびませんでした」
「ばかね」
お京さんは手を伸ばして、そっとかおりちゃんの髪を撫でた。
「オーナーに疑われて同僚にも白い目で見られてヘンなウワサを流されて、それでも1人で頑張ってきたんでしょ? えらかったわよ。かおりちゃん」
お京さんに言われてかおりちゃん、急に半べそかいたような顔になる。
お京さんはかおりちゃんの頭をそっと抱え寄せて、あやすような声で言った。
「かおりちゃん、つらかったね。えらかったね。頑張ったね。でも、もう1人じゃないからね。みんなで一緒に考えていこうね」
かおりちゃんは、目を閉じて、ちょっと泣きたいのを我慢してるような顔をしてた。
裕希くんはちょっとびっくりした顔になってそんなかおりちゃんの様子を見ていたけれど、やがて、おずおずと小さく声で話しかける。
「かおりさん、ほんと、俺、とんでもない迷惑かけて、済みませんでした。ずうずうしくアパートにまでおしかけて、それで、嫌な思いさせて……」
「ううん」
かおりちゃん、べそかき顔のまま、首を振ってぎごちなく笑う。
「今までカノンを辞めなかったのは、ヒロくんのためってわけじゃなくて、あたしの意地だったのよ。なんにも根拠のないことで疑われて暴言吐かれたんだもの。ここで辞めたらそれ見たことかって言われそうで悔しかったし、それにサトミもいたし、スズキさんもいたし」
「スズキさんがいなくなったんだったら、そりゃ、お店の雰囲気も変わってしまうわよね。あの人一番の古株だったし、オーナーよりも10も年上だったし、固定客も多かったし、オーナーも一目置いていたもんね」
「そうなんです」
かおりちゃんは、心を落ち着けようとするようにゆっくり深呼吸して、それから小さく頷いた。
「それでハシモトさんも……お京さんの代わりに入ってきた年配の方がいたんですけど、その人も続けて辞めちゃって……ヒロくんのことでオーナーに睨まれてるのはさておいても、なんだかやりにくくなったなっていうのはあるんです」
「かおりちゃんがカノンに未練がないのなら、ちょうどよかったじゃない。いい機会だから転職考えようね。大丈夫。世の中甘くないってよくいうけど、いうほどには、どこに行っても同じぐらいひどいってもんじゃないから。これ、あたしの実感よ。……さあさ、とりあえずコーヒー飲んじゃってよ」
気を取り直したような声でお京さんは言った。
「それで早いとこ場所を変えたほうがいいわね。ここにはカノンのオーナーも来たことあるし、お店に残っている人たちから裕希くんを連れ出したことを聞き出したら、もう、すぐにでも車飛ばしてやってくるかもよ」




