11 ヘルメットと千鶴さん(2)
司くん、真剣な顔して千鶴さんを見上げてる。
千鶴さんはどう答えようかちょっと迷ってた様子だったけど、首を振って言った。
「いいえ。あの人はあたしには一度も手を挙げたことはなかったわ」
その言葉に司くん、少しほっとしたみたい。表情が緩む。
「でもね」
と、千鶴さん。
「あんたに対してはタガが外れたわよね。あんたが小6の冬家出したときのことがきっかけで」
「そうかな?」
司くんは植え込みの縁っこに座り込んだまま、立てた膝の上に肘をついて、考え込むような顔で少しうつむいた。
「確かに中学の頃、俺達よく喧嘩したけどさ……でも、親父はちゃんと加減してたと思う。それに俺も、もう全くあとに引かなかったし……」
千鶴さんは1つ溜息をついて、
「あの人が引かなきゃいけなかったのよ。あの人の方が大人なんだから。全く同じペースでやりあうなんてばかげてるわ」
千鶴さんは言いながら、あたしの方が気になる様子で、ちらりとこちらを見る。
「それより、ほら、司、鞠乃ちゃんが困ってるでしょ。もう行きなさい」
司くんが顔を上げてこちらを見たので、あたしは言った。
「司くん、よかったらあたし、少し向こうにいって待ってるよ。気になることをそのままにしておくのって気持ちの負担でしょ? 2人で話してて」
司くんは首を振った。
「いてよ、鞠乃ちゃん。別に内緒話してるわけじゃないから」
「でも……」
あたしはよくても、あたしがいると千鶴さんが話しにくそうだよ。それに、別れた理由なんて、すごくプライベートな話だし、部外者が聞いてるところで話すのに抵抗があっても仕方ないと思う。
千鶴さんはしかたないわねといった表情であたしに笑いかけてから、口を開く。
「あの頃のことについては、司には言ってないことが他にもいろいろとあるのよ。パパが小宮山さんを訴えるっていって息巻いて、一触即発だったのは知ってる?」
不審げに千鶴さんを見上げる司くん。
「何それ?」
「あの人、あんたに対する性的虐待で小宮山さんを訴えるって言ってたのよ」
「だってあのときの事件は結局マスコミが報道の行き過ぎを陳謝して、事実無根ってことでおさまったんじゃなかったの?」
「だからそれ以降の話よ」
「それ以降って何だよ?」
「だからあんたが中学の頃のことだってば」
「なんで?」
「なんでって、あんたが家出を繰り返すのが、あの人は気に入らなかったのよ」
「それがなんで訴えるだのなんだのって話になるんだよ」
「大体あんたには何を言っても聞きゃしないし、分別のない子供が無軌道な行動を繰り返すのは仕方がないにしても、いい大人がどうしてそれを受け入れるのか全く理解に苦しむとかなんとか、パパは小宮山さんのことを散々悪く言ってたのよね。あんたを説得するのが無理だから、手っ取り早く相手にダメージを与えようと考えたみたいね」
「ダメージって莫さんに?」
「そう」
「事実無根だ」
「でも、それを証明できる? 何もなかったってことを証明するのは、何かあったって事を立証するよりはるかに難しいのよ。まして、小宮山さんが同性愛者だというのが公になっている以上、世間は自然とそういう目で見るでしょうし」
「ひでぇ」
司くんはぼそりと悪態をつく。
「クソ親父が!」
「あの人、あんたを小宮山さんに取られたのがよっぽど悔しかったみたいね。見てたらわかるんだけど、あんたに対して、自分の子供だっていう愛情もあるみたいだけど、それより何より執着してるっていうの? なにか自分の分身みたいに思っている節があるのよね」
「そういう感覚って、垂れ流しにされると子供には迷惑だ」
司くんは憮然とした調子で、言い返した。
千鶴さんは軽く頷いて、
「まあね。だからあんた、反発してたんでしょ。でも、あの人もあんまり器用じゃないからさ。反発されてるのも鬱陶しがられているのもわかってて、でもだからかえって気になって、どうしようもなくなってしまってたのよね。猛反発してくる子供相手に四苦八苦してるところに突然現れた子供もいなけりゃ独身でしかもゲイだっていう若造に、父親の役っていうかおいしいところを横取りされて頭に血が上ったんだと思うの」
「大体さー、親父も沸点低いよな。あれは性格的な問題だぜ。けどさ、莫さんは別に父親の代わりってわけじゃなかったんだけどな」
司くんはちょっと困ったような顔で説明する。
「あの人父親って柄じゃねーもん。いわゆる個人主義者っていうの? 家族主義の対極にある考え方の持ち主でさ。ただ、俺、そういうのが窮屈じゃなくて、なんていうのかな、あの人のところに行くとほっとできたんだ」
「そうね。そうだったんだろうと思うわ」
千鶴さんはそう言って頷いた。
「だから司の逃げ場をふさぐような行動に走るのは、司の信用を失うことになりこそすれ得るものは何もないよって説得したんだけどね。そうしたらあの人、それは相手の出方次第だなんていうわけよ。小宮山さんがもう司につきまとわないって約束したら、訴えるのをやめるって」
「ったく、つきまとってたのは俺のほうだっつーの」
舌打ちをして、司くんはそう言った。
「親子揃ってとんだ疫病神だよな」
「あら、あんたにも疫病神の自覚があったわけ?」
「そりゃーね」
含み笑いをしてそう訊ねる千鶴さんに、司くんは少し憂鬱そうに溜息をついて答える。
「今だからわかることだけどさ。同性愛者にとってペドフィリアの疑いをかけられることがどんなにキツい状況かっていうの? 狭いコミュニティで成り立ってるからさ、そういう世界って。そこをはじき出されると行き場所がなくなるんだよ」
ペドフィリア。また知らない言葉が出てきた。話の流れからして多分、子供を虐待する人というあたりのニュアンスだろうと見当をつける。
「一度地に落ちた信頼を回復するのって、すっげー大変だろ? 噂が害になるのはそれを本気で信じるやつが必ずいるからでさ。それを逆手にとって相手をやっつけようなんて、親父もたいがいえげつないよな」
「そうやって司が小宮山さんのかたばかり持つからよ」
千鶴さんは肩を竦める。
「それで、実際パパは小宮山さんのところにねじ込んだのだけど、小宮山さんもなんていうか……パパにこういう風に言い返したらしいの。あなたの気持ちはわかるけど、そうやって上から力でねじ伏せようとするのなら、抗戦しますって」
「莫さん、んなこと言ったの」
司くんはあちゃーという顔で、手で額を押さえた。
「小宮山さんからは何も聞いてないのね」
千鶴さんの質問に、司くんは首を振る。
「全然聞いてない。そんな親子で迷惑かけてたなんて話は知らねー」
「他にもパパは小宮山さんにいろいろ言い返されてかちんと来たみたいなの。あなたの態度がそんなに高圧的だから息子さんが反発するんだとか、人をどうこういじろうとする前にまず自分を振り返ってみろだとか、虐待の件ならあなたこそ有罪だろうとか。それであの人帰ってきて、絶対訴訟を起こすって勢いだったのだけど……」
はたで聞くと、莫さんが言ったことは全部もっともって気もするのだけど、誰だって、痛いところを突かれると、かえってかちんとくるものね。
でも、その話と千鶴さんの離婚の話がどう関係があるのかしら。疑問に思っていたら、同じ問いを司くんが口にした。
「けど、ちづちゃん、まさかそれに抗議して籍を外したってことはないよね?」
「だからそれはね、抗議じゃなくて、けじめだったの。結婚したときに、あたしにも司にも手は挙げない。絶対殴らない。殴ったらあたしは離婚届を出すからって言って決めて、2人で判を押して書類をずっと保管してたのよ。あんたが中学進学の件でパパともめてパパがあんたを殴ったときには、パパもすごく落ち込んで反省してたみたいだったし、行方不明だったあんたが無事にもどってきたのが嬉しかったしで、もう一度だけ様子を見ようってことになったけど、その後も何度か、あんたが言うことを聞かないとか言って、あの人、手を挙げたから……約束は約束だから、これ以上引き伸ばしにできないと思って、届けを出したの」
千鶴さんと結婚するときに、そんな約束を交わしてたってことは、それ以前にも暴力があったってことだと思う。でも、司くんはそれには触れずに黙って千鶴さんの話を聞いている。
「パパが訴訟なんて起こしたら、小宮山さんだけじゃなくて司にもダメージがいくでしょって言っても、あの人聞かないわけよ。司のことを考えてるようなふりをして、おまえこそ離婚届なんか出して、夫婦が別れたら子供にダメージがいくのは一目瞭然なのに、全然考慮してないじゃないかなんて言って、もう話し合いにならないの。だからあたし、そんなに言うんだったら書類上のことだけじゃなくて、司を連れて家を出るから……って言っちゃったのよね。そんなに訴訟が好きならあたしも家庭裁判所に申し出てあんたが子供に暴力を振るうからっていって親権を争うわよって」
「親父、そんなでもちづちゃんに手は挙げなかったの?」
「あげないわよ。あの人、あたしに対してはちゃんと冷静でいられるの。最初から他人だってあきらめもあるせいかも知れないけど。あたしのこと冷たいとか、思いやりがないとか、あたしも司も自分のことはちっとも考えてくれないとか、ぶちぶち言っていじけてたけどね」
「けどさ、ちづちゃん、離婚する必要なんて……あったわけ?」
司くんはなんとも頼りなさそうな表情で、千鶴さんを見上げて聞いた。
「俺が口をはさむことではないんだろうけど、少なくともあんたには親父は一切手を挙げてないわけだしさ。俺に対してだって、ほんとに手加減してたと思うんだけどな」
「そうね」
華やかな表情で、ふわりと千鶴さんは微笑む。
「司が納得しないだろうっていうことでは、あの人とあたしの意見が一致したの。だから、司が大人になるまで言うのは待とうかってことで、落ち着いたのよ」
「納得できねえ」
司くんは口を尖らせた。
「それって俺が原因で別れたってことじゃん」
「それは違うわ。原因は自分の力をちゃんと抑制できなかったあんたのパパの未熟さよ。それに暴力って放っておくとエスカレートすることがあるの。それはダメなんだよって、絶対許したり妥協したりしちゃいけないんだよってことを、本人も周りの人間もきちんと意思表示して、お互いに確認しあう必要があるのよ。それについてはいっぱい話し合ったし、結局パパはわかってくれたと思う」
それでもまだ納得しきれてない顔の司くんに、千鶴さんは言った。
「さあ、これで説明は全部よ。長くなったわ。待ち合わせしてるんでしょ」
それから千鶴さん、もう一度あたしに笑いかける。
「いきなりこんな話を聞かせちゃってごめんなさいね。これに懲りずに仲良くできるといいのだけど。ねえ、鞠乃ちゃん、ホントに今度ツーリング行かない? 伊豆か日光にでも」
あたしがどう答えようか迷ってると、司くん、花壇の縁から立ち上がって、代わりにこう答えた。
「ちづちゃん、鞠乃ちゃんはバイク乗らないんだよ。きょうは単なる行きがかり上ってやつでさ。バイクで出かけるのって、早い話が快適にはほど遠いだろ? 暑いし寒いし居眠りできねーし、紫外線にさらされるわ、ずぶぬれになるわ、虫が飛んでくるわだし。そういうのが好きなやつなら別に誘ってもいーんだけど」
「だって司、これって、息子がGFを連れてきたって状況でしょ? 違うの? あたし女の子が欲しかったから、こういう日が来るのを楽しみに待ってたんだけどな」
あたしの顔を覗き込むようにして聞き返してくる千鶴さん。あたし、大慌てでプルプルと首を横に振る。
「それについては俺としても残念なんだけどね」
司くんはあたしを見てちょっと笑う。
「鞠乃ちゃんには、他に好きな人がいるんだよ。きょうはほんと、ぐーぜんっていうか、なりゆきなの」
「なんだー、違うのかあー」
そうは口にしたものの、千鶴さんは、まだもう1つ腑に落ちないといった顔。
「けどさ、なりゆきで、女子高生連れてオカマさんと一緒に食事するわけ? なんだか、わけわかんないわねえ」
「俺もいまいちわけわかんないけど、なりゆきだから」
司くん、笑ってそう答えてヘルメットを抱えなおした。じゃ、なんて手を挙げかけて、思い直したように一旦立ち止まる。
「そういえばだけどちづちゃん、あとでいいんだけど、親父には言えないことでちょっと相談に乗ってもらえないかな?」
千鶴さんはきょとんとした顔になる。
「パパに言えないこと? なあに、それ」
「ちづちゃんが、とりあえず親父に黙っててくれるなら、話せるんだけど……」
「気になる言い方するわねえ。あんたが何か悪いことしたっていう話なら、黙ってるってのは約束できない。でも、そういうことではないのね?」
「全然違う」
と、司くんは首を振る。
「あのさ、鞠乃ちゃんだけど──鞠乃ちゃんは梓ちゃんの友達なの。ちづちゃん、梓ちゃんのこと知ってる? 森園梓っていうんだけど……」
千鶴さんは、今度は本当にびっくりして目を見開いた。




