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最後のダンス

「閣下、私はあそこでは踊れません」


 周囲からの視線をひしひしと感じ、頬が赤らむのを自覚しながらソフィーは早口で断った。


「大丈夫です。どうか私にお任せを」


 余裕を感じさせる朗らかな声でオブライエン公爵が食い下がる。


 ソフィーは怪訝な顔でオブライエン公爵を見た。アレルギーについては知っている筈である。知っていても理解はしていないということだろうか。例えば、孫のアレルゲンを克服させようとする、知識の古い老人のように? だとすればあまりに愚かしい。


「魔力に触れることは禁じられているのです。お誘いは嬉しいのですが、お受けすることはできませんわ」


 桜色の唇が孤を描いた。


「存じておりますよ。大丈夫だという証拠をお見せしましょう。お手をどうぞ、フロレンス嬢」


 尚も食い下がられ、ソフィーは顔を微かに顰めた。


「ですが……」

「フロレンス嬢。少し試していただくだけのことです。試して納得できなければ、断ってくだされば構いません。すぐに済みます」


 オブライエン公爵は言い聞かせるようにゆったりと言った。


「試すと仰っても、私にはまるで分かりませんわ」

「簡単なことです。貴女はあの魔力塗れのダンスフロアに手を伸ばすだけ。ご覧になった方が早いかと存じます。それだけでお分かりいただける筈ですから」


 一言一言に確信を滲ませてオブライエン公爵は笑みを深めた。


 ダンスフロアに手を差し入れると考えただけでソフィーは不愉快な気分になった。重く不快な感触が(まと)わりつき、被害を受けているのは手だけだのに身体中が不快感を訴え、苛立ち、胸はむかむかし、気怠さに座り込まずにいられなくなる。目に浮かぶ。


 とはいえ、ソフィーはオブライエン公爵を説得できる気がまるでしなかった。同時に、失礼にならないよう断ることに煩わしさをおぼえた。アレルギー症状こそ見た方が早い。ソフィーが倦怠感で崩れ落ちれば理解するだろう。そんな希死念慮(きしねんりょ)じみた馬鹿げた考えが過った。


「承知いたしました」


 自棄になってぴしゃりと高飛車に答え、ソフィーは差し出された手を取った。


 真白い公爵につれられてフロアへと近付く。出エジプトで描かれた大海のように、人々はまたも左右に割れて二人のために道を開けた。魚でなく人間の目が二人を見つめる。


 最前列でソフィーはダンスフロアを見た。黄色の小さな花々が咲いている。だが、花畑のような景色はソフィーだけの蜃気楼だと知っている。


「さあ手を伸ばして。何も起きませんから」


 重ねた手を軽く上げてオブライエン公爵が囁く。公爵がわざわざ腰を折って顔の高さを合わせていることに、ソフィーは無性に苛立って無言で頷いた。


 フロアにいる父母が夢中になって踊っているのをソフィーは一瞬眺めた。二人は娘の状況にまだ何も気付いていない。もし気付けばフロアを突っ切ってでも駆け付けてくるのが目に浮かぶ。父母に状況を気付かせないまま終わらせようという気になった。勢いそのまま自由な方の手を伸ばす。


 思わずソフィーは声を漏らした。


「え……?」


 何も起こらなかった。自分の中に、僅かな不快感も見つけられない。ソフィーは一メートルほど前で舞う蝶を、信じられない思いで見つめた。


 小さなその蝶の翅は青に見えたが、白にも見えた。どちらの色なのかソフィーには判断しきれなかった。


 蝶が近付いたので思わず飛び退ろうとした瞬間、オブライエン公爵がソフィーの手を握った。引き抜けない程度に強く、握られていると感じない程度に弱く。分厚い壁に手が埋まっているかのようだった。びくともしない。痛みはないが、動けもしない。


 蝶は幸いにしてまた遠ざかった。


「どうかこのままで」


 桜の色の唇が低く呟く。


「魔法が解けてしまう」


 ソフィーは無言で頷いた。頷くことしかできなかった。


「私と踊っていただけますか? フロレンス嬢」


 今度も頷いた。断る理由は見つけられなかった。それに今やソフィーは、先刻ほど断りたいと思っていなかった。


 オブライエン公爵と共にソフィーはダンスフロアへ舞い戻った。蜘蛛の子を散らすように何組もフロアの外へ出ていく。フロアの人口密度が一気に低くなる。ソフィーは父母の方を見た。ジェラードが目を剥いている。大丈夫だと首を横に振ってみせた。少し見回すがヒューバートの顔はない。まだ戻っていないようだった。


 黄色の花々の間から白い花が咲き始めると、数秒で黄色が消え去って白に入れ替わった。円舞曲が流れ始める。ソフィーは実際に踊ってみて初めて、踏みつけられた筈の花々が散らないことに気が付いた。


「何か気になることが?」


 オブライエン公爵が首を傾け、白い髪が微かに揺れた。


「花が不思議で……随分丈夫なのですね。私が知っている花とは異なるのでしょうか」

「何処の山にでも咲くような花ですよ。そういう魔法がかけられているのです。一曲分の間だけ咲いた状態を保たせながら丈夫にもさせている。曲が終わる度、次の花を咲かせて枯れていく花を隠しているんです」

「枯れているんですか? 気が付きませんでした」

「枯れますよ。次の花に死んだ花から残った養分を吸わせているのです。開花を早める補助になるし、無駄が少ないでしょう」


 ソフィーはちょっと絶句してオブライエン公爵を見つめた。桜色の唇が笑みの形を示す。


「蝶もそうです。今は白い蝶が舞っているでしょう」

「さっきの青い蝶はもう……いないのですか」

「ええ、いません」


 微笑んだままオブライエン公爵が頷いた。


 ソフィーは目を逸らして蝶を見た。すぐに重なり合う蝶を見つけた。交尾をしている。気色が悪いという嫌悪と自然なことだと受容したがる見栄が、頭の中でぶつかり合う。ソフィーはオブライエン公爵へと視線を戻した。


「卵はどうなるのですか?」

「卵……そうですね」


 オブライエン公爵が蝶へと視線を向ける。ぱっと何か晴れたような気がした。ソフィーはそこで初めて、今まで公爵からの視線が自分から外れなかったことに気が付いた。無意識に視線の圧力に苛まれていたらしい。


「機能しないようですね。長く飛ばせるために、把握器(はあくき)産卵管(さんらんかん)も不能にさせられているようです」


 淡々とオブライエン公爵が言った。


「幼虫が生まれないようにという配慮でしょう。嫌う人が多いし、華がないので」


 ふと、白い蝶が一匹、ふわふわとソフィーの方へ近付いた。


 この虫に触れたくないという恐怖がソフィーを襲った。恐ろしくて目を離すことができない。近付くにつれて翅以外の部分が見えてくる。ソフィーの顔は緊張感で強張った。


 遠目に見る分には蝶は美しい。だが翅の間の身体はグロテスクである。蝶の腹を見るとソフィーはいつだってぞっとして全身が強張る。見るまい、想像するまいと思っても、芋虫の節になっている体がぐにゅぐにゅと(うごめ)くのを思い出して、どういうわけかあのおぞましい生き物が厚かましくも己の首筋を這っているような気がしてくるのだった。


「チョウがお好きですか?」


 ソフィーはオブライエン公爵に視線を戻してはっきり発音した。


「いいえ」


 円舞曲に合わせてくるりと回らねばならぬ瞬間が近付いてきていることにソフィーは気が付いた。そうなれば蝶たちとぶつかりかねない。ぞっとした。円舞曲のステップを考えた人間も、作曲者も、ここにいる演奏者も、この舞踏会の主催者も、何もかも一瞬で恨めしくなる。逆恨みと知りながら恨めしい。


 だが今や何匹もの蝶たちが二人のすぐ傍を飛び回っている。しかも他のカップルに比べて付き纏っている蝶が何故か多い。溢れるほどのソフィーの嫌悪にはまるで気付いていないとみえる。


「お嫌いなのですか」


 オブライエン公爵が驚いた声を出した。


「虫は皆苦手です。チョウなら遠目に見る分には良いのですが」


 子孫を残す力さえ奪われている蝶たちを哀れむべきだと思うのに、ソフィーは嫌悪感を堪えられなかった。哀れまなければならないと思うほど汚らわしく思われる。そういう己の狭量さを憎んだが、何にもならなかった。


「近付くのもお嫌なのですか」


 面白がるような響きを感じてソフィーはぱっと顔を上げた。


「ええ。できればここから逃げ出したいくらいですわ」


 つんと顎を上げ、ソフィーは不機嫌を隠すことなく答えたが、オブライエン公爵は全く頓着しない様子で笑った。


「ドレスの裾が花に触れることすらないのに、そんなことを気になさっていたとは」

「えっ?」

「お気付きでないのならお見せしましょう」


 腰の手はそのままに重ねた手が離れる。手袋を嵌めたオブライエン公爵の手は長く蝶まで伸びた。だがその指先があと少しで蝶に触れるというところで、蝶が動きを止めた。


 開いた翅はそのままに、蝶がくるくる舞い落ちる。


「ああ……触れるのもお嫌なら踏むのもお嫌ですよね。厳密には、直接踏むことはないですが」


 呟き、オブライエン公爵は斜め下に手を突き出した。落ちゆく蝶の方へと。その先で蝶が白く弾ける。そして消えた。


 ソフィーは呆然とした。


「魔力で我々を覆っているので心配なさることは何もありませんよ」


 何曲か前、オレンジがかった黄色の蝶が飛んでいたのをソフィーは思い出した。そのときはフロアに青い花が咲いていた。補色関係にゴッホを思ったので印象に残っている。


 だが今や青い花は何処にもない。黄色の蝶も、一匹もいない。


「普段から使っている方法なのです。私は、触れている対象だけは身体の一部として捉えることができるので」


 曲に合わせて回るときに、ふと一匹の蝶が近付いた。虫と人とがぶつかるほど近付く。蝶の六本の足が、節の連なる腹が、いつになくはっきり見えた。ソフィーがまずいと思った瞬間にことは起きた。


 顔から十センチのところで白い蝶は跡形もなく消えた。


「フロレンス嬢?」


 蝶の腹を、ソフィーは思い出した。幼虫の頃の名残りのようなあの腹を。完全変態でまるで違う生き物のようになっても、腹は節くれだっている。柔らかな子供時代の面影。


「虫を━━」


 この期に及んで蝶をただ虫と呼ぶ自分を、ソフィーは憎んだ。


「チョウたちを消してくださらなくとも結構ですわ、閣下。それより、ただ遠ざけていただけませんか」

「良いですよ、もちろん」


 オブライエン公爵は機嫌良く請け合った。


「ありがとうございます、閣下」


 いやにのっぺりとした声が出たが、自分でも分からない理由でソフィーは取り繕うことをやめた。

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