救けられて
「フロレンス嬢」
かわすには一歩遅かった。令息がソフィーに微笑みかける。
「グリセール子爵」
素早く微笑みを浮かべて応えるも、ソフィーの頭では警鐘が鳴っていた。というのも、グリセール子爵がやたらと嬉しそうなためである。期待の眼差しを受けるのがソフィーは得意でなかった。その眼差しがダンスフロアに時折向けられるとなると尚更、煩わしかった。
しかし最も耐え難いのは、グリセール子爵の発する臭い━━もとい臭気である。ソフィーは、一度しか会っていないにも関わらずこのいかにも人の良い、良い意味で印象に残りにくそうな子爵の記憶が薄れていないわけを思い出した。
「母から貴女がおいでだと聞いて……美しいドレスですね。とてもお似合いです。それにしても以前にも増してお綺麗になられましたね。覚えておいででしょうか? 一年前に一度お会いしたのですが」
「ええ、もちろん。宮廷舞踏会でお話ししましたわね」
ソフィーは愛想良く肯定を示したが、果たして一年前もこれほど肥っていたろうかと内心訝った。
はち切れそうな太り方ではないものの、服のサイズが合っていないのか合わなくなったのか、グリセール子爵の夜会服は、まるで肉だねを詰め過ぎたソーセージの皮のようである。無難だが平凡過ぎるベストは、胴回りの肉で歪んでいるという一点のみ他と一線を画していた。踊れば何処かのボタンが弾け飛びそうに思われた。
眼前の娘が冷徹に観察していることなどつゆ知らず、覚えられているとの肯定にグリセール子爵は顔を輝かせた。ソフィーの胸が罪悪感で疼く。子爵の笑顔には人の良さが現れていた。良い人なのに臭いだけで苦手になり、それが嫌悪にまで及んでいることが辛くなる。
「是非またお会いしたいと思っていたのです。実はこの夜会服は魔法を使わず作らせたものでして、つまり、良ければ━━」
続く言葉は予想するまでもなく、ソフィーは断れないと諦めた。眼前の男が、主催者の息子であることは知っている。ソフィーが、五曲目からしかフロアの魔法の仕掛けが作動しないと知りながら誘いを断ったとみられたくはない。悪い印象を与えたくはないし、嫌われていると思って欲しくもない。ソフィーにも無闇に傷付けたくないと願う程度の優しさの持ち合わせはある。
できるだけ息を止めて踊ろうとソフィーが決意したときだった。
「フロレンス嬢、少しは休めましたか? 飲み物は━━生憎飲みそびれましたが、そろそろ四曲目が始まりますよ」
突如ソアレン伯爵が割って入った。グリセール子爵が吃驚した顔で言葉をなくす、
「え……ええ」
「では約束通り踊ってくださいますね」
上機嫌な、些か上機嫌過ぎる顔と声でソアレン伯爵が言った。だが約束など覚えはない。ソフィーは伯爵の言葉の意味を悟った。ありがたく申し出の形をした助け舟に乗ることにする。
「ええ。お約束ですもの」
呆気に取られているグリセール子爵にソフィーは苦笑してみせた。
「申し訳ないのですが失礼いたします」
背を向けた瞬間に呼吸がしやすくなり、安堵する分だけソフィーは胸の奥が痛むのを感じた。空気の清涼なことは認めざるを得ないが、臭いから近寄りたくないというのは、我ながらあまりに残酷である。しかし敬遠したくなるのもやむを得ないことだった。呼吸とは生きるにおいて必要不可欠な身体の働きである。例えば空気が薄い場で苦しい思いをすることは明白だ。件の男の傍にいるということは、畢竟ソフィーにとって拷問に等しいということになるのである。
再びダンスフロアに舞い戻り、ソフィーはソアレン伯爵と向かい合った。直後に指揮者が指揮棒を振りかぶる。音楽が流れ始め、ソフィーは四曲目のダンスのステップを踏み始めた。不謹慎にもソフィーは、パートナーがグリセール子爵ではなくソアレン伯爵だということを喜ばずにいられなかった。
「また助けていただきましたわ」
「大したことでは……」
ソアレン伯爵がふうと息を漏らした。その間にも踊りに一切の乱れがない。
「良かったです。お節介でなかったなら」
「お節介だなんて。でも、何故……何故私が、その」
言葉を探してみるも、巧い婉曲表現を見つけられずソフィーは開き直った。
「困っていることがお分かりに?」
ソアレン伯爵の唇が面白がるように歪んだ。ソフィーはふと気が付いた。助けてもらったと自分から言った時点で、婉曲表現を使っても仕方のないことだ。
「何故……何となく、ではいけませんか?」
「その何となくを、是非伺いたいですね」
ソフィーが食い下がるとソアレンがにやっと笑った。先刻のやり取りから拝借したのに気付いたとみえる。面白がらせようとした通りに伯爵が笑ってくれたことに、ソフィーは純粋な喜びを感じた。こういう会話ならではの遊びが伝わるのは、いつだって嬉しいものである。
ちょっとばかり考えるような顔付きでソアレン伯爵が視線を逸らす。ソフィーは相手の意を汲んで口を閉じ、ダンスに集中した。アイリーンがフロアの外で婚約者と話しているのがちらと見える。以前、一度だけ会ったことのあるその令息が誠実そうで安堵したことを思い出した。優しくて真面目なアイリーンを大切にしてくれることだろうと期待できたし、ヒューバートも褒めていた若者である。しかし婚約者といえばセシリアの相手は、と嫌なことを思い出しかけた折にソアレン伯爵が口を開き、ソフィーは相手に集中した。
「ほんの一瞬ですが、彼に会った瞬間に顔が引き攣ったんですよ。隣にいなければ気付けないほど一瞬、ごく僅かに」
いわくありげに微笑み、ソアレン伯爵がソフィーを見つめる。まだ先があるとみえる。聞くのが恐ろしいような気がしたが、ソフィーはそもそもこちらから聞いたのだと自分に言い聞かせて静かに続きを待った。
「その後の微笑みは完璧でした。穏やかで、一度として消えることはなく……それがまず不思議で」
まず、という言葉がこれほど不吉に聞こえたことは、ソフィーの人生において一度もなかった。苦笑して頷きながらも、心臓が嫌な音を立てる。
「一度疑ってみると、目線の泳ぎ方がひどく気になりました。彼の夜会服に興味をお持ちというわけでもないようでしたし」
グリセール子爵のファッションへの冷ややかな講評には笑いを誘われたが、ソフィーは軽く唇を噛んで口角が上がりゆくのを堪えた。流石に人を笑える状況にない自覚はある。
「手を軽く握っているにしては手袋の皺が深いようにも見えましたね。これは今思えばですが。ですが決め手は彼が貴女を誘おうと決めたとき……」
そこでソアレン伯爵は笑いを噛み殺した。
「よもや貴女は処刑されるのではないかと思いました。あるいは戦地にでも赴くのかと。一体何の覚悟をお決めになったのですか?」
あまりに図星をついた言葉にソフィーは絶句した。呆然とソアレン伯爵の顔を眺める。眺める内に伯爵の端正な顔から笑みが消えていく。慌ててソフィーは口を開いた。
「あら。そこまで見てらしたなら、閣下の中で答えは出ているのでは?」
「大雑把な仮説でしたら」
「お聞かせください」
ソアレン伯爵は物言いたげな様子だったが、暫くソフィーを見つめると口元を緩めた。
「踊りたくない程度には、貴女は彼が苦手です。理由は定かではないですが……たった一度で苦手意識を持つような出会いだったらしいというのは推察できました。この程度です。流石にこれ以上は分かりません」
ソフィーは黙って微笑んだ。弁明したい気持ちがむくむくと湧いてきていたが、その欲求に身を任せるべきでないことは自明である。子爵の体臭に耐えられないことを打ち明けるわけにはいかないが、さりとて、誤魔化すために子爵のことを悪くいうわけにもいかないからだ。何より後者はソフィーの主義にも一般の道徳にも反することである。どちらか選ばざるを得ないとなれば前者を選ぶことになり、ソアレン伯爵から軽蔑されることが予想された。どう転んでもソフィーの望まない結果となる。故に何も言わぬが吉である。
沈黙による肯定を悟り、ソアレン伯爵は目を細めた。ソフィーは緊張して顎を引いた。はっとソアレン伯爵が目を見開く。三白眼が際立ち、いつにも増して迫力のある眼差しになった。
「彼が貴女に何かしたのですか?」
薄い唇を殆ど動かさず、ごく低い声でソアレン伯爵が尋ねた。ソフィーは見開かれた目の意味に気が付いた。真剣な気遣いである。もっというなら心配である。そのような思いやりに値しない自覚があるため、ソフィーにしてみればこの状況はある意味で滑稽だったが、伯爵が真面目そのものなので笑えなかった。相手の真剣な態度に釣り合うため、真剣に答えを考える。
誰も傷付けない答えをソフィーは探し、見つけた。
「いいえ。……ただ、あの方との心から会話を楽しめる自信がなかったものですから、巧く話さなくてはと思い詰めてしまって」
最も美しく聞こえる真実を告げ、ソフィーは気まずいながらもはにかんだ。一瞬間を置いてソアレン伯爵が眼輪筋の力を緩める。
「申し訳ない。変なことを……聞いてしまいましたね」
「変なことだなんて」
ご心配をおかけして、と流れるように謝罪しようとしてソフィーは言葉を飲み込んだ。
「心配してくださってありがとうございます」
言ってみてからソフィーは自意識過剰ではないかと不安になった。だがソアレン伯爵は嗤わなかった。
会話がまた自然と途切れる。もう少し話したいと思うが、沈黙はそれほど居心地の悪いものではなかった。
ソフィーはダンスの講師から教わった通りにしようと思い立ってソアレン伯爵を見つめた。深い栗色の虹彩よりいくらか明るい茶の三白眼から視線が返ってくる。講師からパートナーに夢中だという態度は礼儀だと口を酸っぱくして言われていた通りである。伯爵の眼差しを見るに、どうも共通理解らしい。ちょっと今までお喋りに興じ過ぎたかもしれないとソフィーは思った。
満たされたような、少し気恥ずかしいような、不思議な心地でソフィーはダンスを楽しんだ。ソアレン伯爵に全て委ねながら。既に一曲踊り終えているので、パートナーへの信頼がソフィーのダンスへの緊張を解いていた。
伯爵の顔貌がいつになくクリアに見える。頬肉が削ぎ落とされたように薄く、頬骨の下が少しばかり窪んでいる。当然ながら輪郭も、およそ肉や脂肪を感じさせないような引き締まり方をしていた。しかし痩躯に見えて首はしっかりしている。腿が発達していたのは、今思えば意外でもない。
曲が終わり、二人は離れた。ソフィーはソアレン伯爵の体温が遠ざかったのを名残惜しく思った。
「今度こそ貴女をお送りします」
ソアレン伯爵が静かに宣言する。ソフィーは突然相手の顔を見過ぎている気がしてさっと視線を落とした。微笑みを作ってから顔を上げる。その拍子に、伯爵の肩の向こうでオリヴィアの父母と談笑しているジェラードとローズが見えた。三曲目までよりダンスフロアに近付いている。迎えが来たということらしい。ソアレン伯爵もソフィーの視線の先を見た。
「といってもすぐそこですが」
「それでもありがたいですわ」
ソフィーはにこやかに応じた。内心残念がっているのを隠すために。
オルドリッチ伯爵夫妻は、ソフィーがソアレン伯爵に付き添われてやって来たのを穏やかに受け入れた。
「オルドリッチ伯爵。お会いできて嬉しく思います。良い夜ですね」
「ソアレン伯爵。こちらこそ、娘がお世話になりましたな」
ジェラードは平然と応じるとローズを紹介した。つつがなく挨拶が済む。その静けさをどう判断すべきかソフィーが悩んでいると、ソアレン伯爵が苦笑混じりに口を開いた。
「伯爵。どうかフロレンス嬢をお叱りにならないようお願いします。踊り過ぎだとすれば、彼女を誘った私に非があるのです」
一瞬面食らうもジェラードが笑顔を取り繕う。
「まさか。ソフィーに新しい友人ができたというのは喜ばしいことですから」
少しの間談笑すると、ソアレン伯爵は残念がる様子で暇を告げて去っていった。数名の貴族たちが伯爵に話しかけたが、いずれも短く会話を切り上げられたのをソフィーは目にした。いっそ無愛想ともとれる態度である。そのままソアレン伯爵はダンスホールを出ていった。
「やはり長居はしないか」
ジェラードが呟いた。
「いつものことなの?」
「ああ。あまり社交的な方ではないからね。だが領地経営には真面目だよ」
そう言うとジェラードはソフィーを見た。深い栗色の目を前に、ソアレン伯爵と二度踊ったということを思い出す。同じ相手と連続で踊るのは二曲までなら許される筈だ。しかし急激に不安になった。
「踊り過ぎだったということかしら」
生意気な言葉をしおらしい態度で中和して先手を打つ。ローズは面白がる顔をした。微かな変化だが、ソフィーには分かった。ジェラードはというと首を横に振ったのみである。
「ソフィー。私たちはお前をちゃんと見ていたんだよ。お前が誰と話していたかはあそこからでも良く見えていたんだ。叱るとすればかわし方を知らないという点だけだ。意味は分かるね」
「お父様が私と同意見だとは思わなかったわ」
「お前と同じ理由ではないだろうが」
「同じ理由なら━━」
言いかけてソフィーは飲み込んだ。グリセール子爵が臭うと感じているのは、どう考えても自分だけである。鼻の良いオリヴィアが指摘しないのがその根拠だ。令嬢たちのお茶会は時折、残酷な品評会となるが、子爵は話題に上がったことすらない。
「━━驚きよね。私はお父様のように社交界に詳しいわけではないんだもの」
「ソフィー。お喋りしてると仕掛けを見逃すわよ」
ローズに言われてソフィーはダンスフロアに目を向けた。フロアではようやく魔法の仕掛けが動き出すところだった。同時に楽団が音楽を奏で出した。




