恥じらいの三曲目
「今夜も素敵ですね、フロレンス嬢。オーキッドも良くお似合いだ」
出し抜けにソアレン伯爵が賛辞を送る。ソフィーは微笑もうとしたが、思わず恥じらいから視線を落とした。伯爵の、まるで惚れ惚れしているかのような眼差しをまともに受け止めることができない。男性に慣れていないためである。ソフィーは自意識過剰だと己を責めると共に、これまで社交に力を入れなかったことを悔やんだ。
閣下こそと賛辞を送りたかったが、あの茶色の目を見つめるには勇気が足りないのをソフィーは実感した。ダークブラウンの夜会服はソアレン伯爵に良く似合っていたし、胸元から覗く深紅のベストの大胆な色遣いは粋で感心していたのに、いざ口を開こうとすると言葉が上顎にでも張り付いたかのように口がきけない。落としたままの視線の先で、伯爵の太腿が布越しにも張り詰めて見えるほど発達しているのにいきなり気が付く。こういう妙なことには気付くのに、言葉は出てこないというのはもどかしかった。
「閣下こそ━━」
折しもソフィーがようやく口を開いたところで円舞曲が流れ始めた。その先を言い損なってソフィーは口をつぐんだ。仕方がないので大人しくダンスに集中することに決める。もしかすると、小声だったのでソアレン伯爵には何も聞こえていなかったのかもしれないと思い至り、ソフィーはほっとするやら妙に虚しいやら、どちらともつかぬ変な心地がした。
いい加減相手の顔を見るべきだと、ソフィーがふと顔を上げるとソアレン伯爵と目が合った。内心びくつくも、二度の準備運動で解れた体はミスなくステップを踏んでくれて安堵する。
「悩み事が?」
出し抜けにソアレン伯爵が聞いた。
「いいえ……」
何故そんなことを、と聞き返しかけてソフィーは飲み込んだ。質問に質問で返すのはあまり良くない。そう思ったところで、俯きがちな自分の態度の不審さに気が付いた。
「何だか緊張してしまって。舞踏会に参加するのは一年振りなんです」
正直に打ち明けてソフィーは苦笑した。
「こんな風に踊るのも久しぶりで……」
「お上手ですよ、フロレンス嬢」
ソアレン伯爵が素早く言った。癖で礼を言いかけたところでソフィーは緩頬した。
「お上手なのは閣下の方では?」
指摘してみて確信する。ソアレン伯爵は素晴らしい踊り手だ。そうでなければ、物思いに沈んでいるソフィーがミスなく踊りおおせる筈がない。リードが巧いのだ。
「ダンスがお好きなんですね」
「ええまあ。体を動かすことは大抵好きです」
「良いですね。他にはどんなことをなさるんですか?」
「乗馬や剣術ですね。ただまあ、ダンスが最も好きですが」
ソフィーは頷いた。残念ながら運動に縁がない人生なので、例に漏れずダンスも然程巧くはないが、そんな自分でも踊りの名手と分かるソアレン伯爵がダンスを好むのは不思議ではない。伯爵は待ち受けるような顔をしていたが、ソフィーは深く考えず微笑んだ。
「これだけお上手なんですもの。納得ですわ。寧ろ嫌いだと仰ったら不思議なくらいです」
ソアレン伯爵が表情を緩めた。その緩みに励まされて、ソフィーは質問を重ねた。
「一口にダンスといっても色々ありますけれど、特にお好きなものは?」
「バレエです。尤も今は観る専門ですが。実は子供の頃もっと下にある島で暮らしていて、その頃に習いまして……フロレンス嬢は、ご覧になったことは?」
「残念ながら。ですがいくつかの演目は存じております。いつかは観劇に参りたいと憧れておりますの」
ソフィーは本心から答えた。いつの日かバレエ団がこの島まで公演に来てくれるのを願って、演目の原作本には目を通してある。
「是非一度ご覧になってください」
嬉しそうにソアレン伯爵が頷いた。ソフィーは今になって、島内では演劇や歌劇やサーカスに比べ、バレエへの関心が薄いことに思い至った。初心者向けだという演目をいくつか教えてくれたソアレン伯爵は、いつにも増して上機嫌である。話せる相手が少ないのかもしれない、と思うと、ソフィーは伯爵が喜んでいるのは嬉しいものの、自分に観劇経験がないのが残念な気がした。
「そういえば先ほど何か仰いかけてましたね」
思い出したようにソアレン伯爵が聞いた。ソフィーははっと頬を赤らめた。
「あの、大したことではございませんから」
「是非伺いたいですね」
ソアレン伯爵が目立たない程度にソフィーの顔を覗き込んだ。茶色の三白眼が、きらきらと悪戯っぽく輝く。ソフィーはあっという間に降参して白状した。
「閣下こそ素敵だと……深紅のベストがお似合いですわ」
「本当に? 兄君は眉を顰めておいででしたが」
「兄は兄ですわ」
それは覚えていないが、ヒューバートならあり得ることだ。ソフィーはすまして答えた。内心では、この場にいなくとも会話に出てくるヒューバートに若干の煩わしさをおぼえながら。
「貴女を大事にしていらっしゃる。素晴らしい方ではありませんか」
ソアレン伯爵が嗜める。
「ええ本当に」
ソフィーは素直に認めた。ヒューバートは良い兄だ。よその令嬢たちの話を聞くと、女兄弟を自分の出世のための道具にするようなのは珍しくない。寧ろヒューバートのような兄が稀なのだ。
しかしそれは一面に過ぎない。
「ただ大事にし過ぎなんです」
冗談めかしてソフィーが言うと、ソアレン伯爵も笑みを浮かべた。
会話が自然と途切れる。ソフィーはリードされるに身を委ねた。流れる円舞曲の優雅な音と、その中のピアノが奏でる妙なる調べに耳を澄ませる。侯爵夫人が人気のピアニストを引っ張ってきたのだと得意げだったのを思い出した。人気なだけのことはある。許されるなら腰を据えてしっかり聴きたいほどだった。
「そういえば、図書館には行かれましたか?」
ふと思い出したようにソアレン伯爵が尋ねた。ソフィーの顔は一瞬強張った。伯爵がすぐ付け加える。
「もちろん、お忙しいでしょうが」
ソフィーは苦笑いした。ソアレン伯爵の気遣いに気付いたためと、自分が忙しくない身だという自覚があるためである。島のどこを探しても、結婚適齢期に足を踏み入れた社交シーズンの令嬢の中で、ソフィーより暇な者はいない。
「いえ、中央図書館に参りました」
「収穫はありましたか?」
「はい、お陰様で。思い切って王都まで来た甲斐がございましたわ」
「ああ……現実になりましたね」
思いがけない返事にソフィーは瞬きした。ソアレン伯爵が気まずげに目を逸らす。その骨格が目立つ横顔を眺めていると、不意に羞恥が過った気がした。
ソフィーは恐る恐る言った。
「お会いできましたものね」
ぱっとソアレン伯爵がソフィーを見た。端正な顔を笑みが彩る。勘違いではなかったという確信からの安堵が、伯爵の研ぎ澄まされたような顔をいつになく緩ませたのか、その笑みは無防備なほど明るかった。本人も自覚したのかすぐに頬が引き締められたが、ソフィーは突然の素直な笑顔にぼうっとしたままステップを踏んだ。
会話が再び途切れる。だが今回のソフィーには、ピアノの妙なる調べを楽しむ余裕どころか、音を見つける余裕すらなかった。手袋越しに伝わる手の温度や、ふとした弾みに近付く二人の距離に意識が散っていたためだ。だからこそソアレン伯爵の顔を見ることはできなかった。見てしまえば今度こそ、この踊りの名手がフォローしきれない失態を犯すとソフィーは確信していた。
三曲目の円舞曲が終わり、ソフィーは安堵の吐息を漏らした。用意していた台詞を口にする。
「ありがとうございました、ソアレン伯爵」
そこまで言ってソフィーは困惑した。本心で考えた筈なのに、自分の言葉は思いがけず空々しく聞こえた。
「と、とても楽しかったです」
付け加えた言葉はしどろもとろになり、ソフィーは失敗だと悶えた。終わり良ければ全て良しだというのなら、終わり悪ければ全て悪しではなかろうか。前世の古典の授業を唐突に思い出す。「よし・よろし・わろし・あしの順で良い方から悪い方へ意味が変わっていく」と教師が言っていた筈だ。ノートに書いた自分の汚い字は良く覚えている。懐かしき日本語。あし━━悪しは最悪ではないか! 忘れておけば良かったとソフィーは思った。一秒にも満たぬ間に。
だが、違う一秒を過ごしたソアレン伯爵は笑っていた。
「私もです。またお誘いしても?」
低く潜めた声で問われ、ソフィーは控えめに頷いた。自分の婚約者候補二人が混戦模様だということや、兄が嫌がるであろうことは、無意識のうちに頭の片隅へと追いやられていた。
ソアレン伯爵と共にソフィーはフロアを後にした。入れ替わりに何組かのカップルがフロアに足を踏み入れる。別れが近付いていた。ソフィーはまだ伯爵と話していたかったが、ヒューバートに従って大人しくローズの元へ行くべきなのは明白である。
「母君のところまでお送りします」
人々の間をゆっくりと通りながら、ソアレン伯爵が申し出た。ソフィーは手間をかける申し訳なさから遠慮しようと口を開きかけ、茶色の三白眼が自分を見ていないのに気が付いた。視線の先を追う。
そこには一人の肥った令息がいた。




