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ブルネットの青年

 ソフィーはふと、斜め前で談笑している男性陣に目を留めた。見覚えのある横顔があるような気がする。巻き毛のブルネットの青年。だがブルネットは珍しくない。人違いだったとしたら、と怖気付く。そもそも、それほど親しくはない。声をかけるべきか躊躇(ためら)う内に距離が近付く。


 ふと青年がこちらを見た。青年の茶色の目とソフィーの深い栗色の目が合う。談笑の余韻が、微笑みへと変わった。青年は友人たちの輪を抜けてこちらへ来た。


「フロレンス嬢。それにフロレンス卿」


 真っ直ぐ微笑みかけられて一瞬どぎまぎする。ソフィーは思わず視線を落とした。だが何とかすぐ微笑み返すのに成功した。ただし心の準備が足りずに少し引き攣った。


「ソアレン伯爵」


 お辞儀してすぐ、ソアレン伯爵が口を開いた。


「お会いできて光栄です。本当に」


 嬉しそうにソアレン伯爵が言った。ソフィーは今度こそ心から微笑んだ。


「こうしてお会いするのはいつぶりでしたか? 確か……」

「馬車がぬかるみにはまって助けていただいたとき以来ですわ」


 ソフィーは慌てて後を引き取った。ヒューバートには、ソフィーがソアレン伯爵と図書館で再会したことを知らせていない。ソアレン伯爵が微笑んだまま一瞬目を細める。


「そうでしたね。お元気そうで何よりです」


 面白がるように茶色の三白眼がきらめく。しかしソアレン伯爵がわざとらしく訳知り顔で笑うことはなく、ソフィーは安堵した。それどころか気が緩んだせいで、少しはらはらしながらも同時にわくわくし出した。


 ソアレン伯爵がヒューバートをちらりと見る。見られたヒューバートは微かに眉を顰めただけで何も言わなかった。ソフィーはこの後に起こることを確信した。ヒューバートの狙いも。兄はソフィーに自分で断るよう仕向けたのだ。


「良ければ一曲踊っていただけませんか?」

「お誘いは本当に嬉しいのですけれど……」


 予想通りの流れ。ソフィーは準備しておいた文句を言いかけて、躊躇った。


「魔力にアレルギーがあるのです。触れないようにと言われていて」


 声を潜め早口で言った。ソアレン伯爵は少し驚いた顔をした。知らなかったと見える。


 ヒューバートがソフィーに咎める目を向ける。後で何と言い訳するかは悩ましかったが、不思議とソフィーの胸に後悔はなかった。それより、ソアレン伯爵に正直な理由を話せた安堵の方が勝っている。


「それでルーペをお使いだったんですね」

「お気付きだったんですね」


 ソフィーは少し意外に思いながら頷いた。


「そうなんです。会場内で注意すべき箇所を把握しておきたくて……」

「賢明なご判断かと。ダンスホールは特に要注意ですから」

「ええ。それから皆様のお召し物も」

「では差し支えなければ、私の服も確認していただけませんか?」


 ソアレン伯爵が目を輝かせてソフィーに微笑みかける。怜悧に整った顔や鋭い眼差しのせいか、楽しげなのにどこか冷ややかで、それが却って魅力的だった。じっと見つめられると胸がざわめくのに、決して不快ではない。


「ええ」


 いつも通りの声を出したつもりが高くなって驚く。それでもソフィーには、返した微笑みは再会の瞬間ほど引き攣っていない確信があった。


「もちろん、喜んで」


 ソフィーはヒューバートからの視線を完璧に無視して承諾した。


 取り出したルーペでソアレン伯爵を見る。不思議なことに、ルーペのレンズを通すとソアレン伯爵を一方的に眺めることはとても容易かった。ソフィーはソアレン伯爵の身に付けているものを隅々まで確認した。そして驚いた。魔力の残滓が全くない。


「魔法は使わずに仕立てたのです」

「珍しいですね」


 ヒューバートが初めて口を挟んだ。ソフィーはちらっと兄を見た。


「衣類にはあまり魔法を使いたくはないんです。仰る通り、珍しい考えなんですが」


 ソアレン伯爵がはにかむ。


「何故ですか? 時間もかかるのに」

「安心感があるからかもしれません。私自身が魔法に才能がないので、魔道具が時折起こす事故への恐怖心が強いんです」

「そうですか? あの日、全員の服を清めてくださったのに?」


 柔和に微笑み、素晴らしく穏やかにヒューバートが問いかけた。だが、ソフィーには分かった。ヒューバートはこの疑問をずっと温めてきたのだと。今になって、あの日のヒューバートの言葉が蘇る。わざとらしく「ご親切にも」を強調していたような気がした。それらの情報をまとめて考えてみようと、ソフィーが思い返し始めた時だった。


 ソアレン伯爵がくっくっと笑った。


「あれは本当に、ごく単純な魔法なんです。それすら私は満足に使いこなせませんが……どうも調節が苦手で」

「お上手でしたよ。お陰でとても助かりました」

「ありがとうございます。ですがお気付きでしょう。本当に能力があれば、あれほど髪を乱れさせることはありません」


 ヒューバートがくっと顎を引いた。形勢が変わりつつあるのをソフィーは(うっす)らと感じ取った。


 ソアレン伯爵は大真面目に続けた。


「男性の服はまだ良いのですが、女性のお召し物は繊細ですから……私の腕前だとドレスを吹き飛ばしかねないんです。跡形もなく━━」


 ソフィーは思わず笑った。あまり堂々と笑うべきでないと戒めようとすればするほどおかしくなる。ソフィーの想像の翼が勝手に羽ばたく。


 ソアレン伯爵はソフィーが妄想に(ふけ)っているなか言葉を続けた。


「もちろん馬車を魔法で動かすことも考えましたが、持ち上げた後に上手く降ろせる自信もなく、大破させるわけにはいかないので素手でご協力した次第なんです」

「大破ですか?」


 穏やかでない言葉に興味を引かれ、ヒューバートが何か言う前にソフィーは聞いた。ソアレン伯爵が真面目くさって頷く。


「少し浮かせる、というのがまず上手くいかないんです。確実に十メートルは浮かせるでしょうから……」

「十メートル」


 十メートル上空で可哀想に怯える馬たちをありありと想像して、ソフィーは笑ったが、ソアレン伯爵は嫌な顔をしなかった。それどころか、殊更に楽しげに笑った。


「ですが体外への魔力放出は完璧に抑えています。ご安心を」


 それはルーペで確認済みだった。ソフィーは頷き、ヒューバートをちらりと見上げた。むっつりとした頷きが返ってくる。だが、ソフィーだって今更そんなことで怖気付きはしない。寧ろおかしくすら思った。ヒューバートは引っ込みがつかなくなっているだけである。今回の不機嫌さは、自分の指摘が期待していた効果を生まなかったことへの憤慨からきている。


 ヒューバートの目論見は外れたのだ。


「踊っていただけますか?」


 ソフィーは微笑み、ソアレン伯爵の手を取ろうとしたが、そこで邪魔が入った。


「申し訳ないが、少し待っていただけますか? 父が心配性なもので、この子の相手は決まっておりまして」


 ヒューバートが慇懃(いんぎん)に言った。しかし、まるで反論を受け付けるつもりがないのは口調にはっきり出ていた。ソフィーは謝意を込めた視線をソアレン伯爵へと送った。


 一瞬だけ顔を強張らせるも、ソフィーと視線が合ってソアレン伯爵は微笑む。そして鷹揚(おうよう)に頷いた。


「構いません。何曲目にお声がけしましょうか」

「そうですね。何曲も連続で踊らせるわけには参りませんし」

「三曲くらいならどうということもないわ」


 ソフィーは口を挟んだ。ヒューバートと絡めている腕に、思わずきゅっと力が入る。五曲目からは魔法の仕掛けが作動して「フロアは最高にロマンチック」になると主催の侯爵夫人から聞いていた。のんびり休んでいる余裕はない。


「ね、良いでしょう? 最初のダンスは喜んでお兄様と踊るわ」


 じっとソフィーを見つめるヒューバートの顔が、いかにも仕方なさそうに緩んだ。


「良いだろう。ただし、三曲目が終わったら真っ直ぐ私のところへ来るんだよ」


 ソフィーはにこにこして頷いた。たまには甘えてみるものだ。はじめから一曲目はヒューバート、二曲目はクリスと決まっていたから、こんな小細工は今更通用しないと思っていたのに。


「では二曲目が終わる頃にまたお会いしましょう」


 ソアレン伯爵がまとめる。オルドリッチ伯爵家の兄妹が全く同時に頷いた。笑いそうに唇の端を引き攣らせながら、ソアレン伯爵が立ち去る。


 ソアレン伯爵と入れ替わるようにクリスが現れた。端正な顔に親しげな笑みが浮かぶ。形の良い唇の間で白い歯が光る。


「やあ、フロレンス卿。それにソフィー嬢」

「お前の出番はまだだ」


 ヒューバートがばっさり切り捨てたが、クリスはめげなかった。


「そろそろ一曲目が始まると教えにきた幼馴染を、手厚く歓迎してくれて嬉しいよ、ヒュー」


 クリスがにやっと笑って忠告した。


「君たちに踊るつもりがあるならダンスフロアに移動した方が良い」

「お前は? どうせまたご令嬢たちに囲まれたろ?」

「僕は二曲目からさ。予定が変わっていなければね」

「変更はないよ。お前にはな」


 薄い水色の目が、今夜初めてソフィーを見た。ソフィーは唇の片端だけで笑ってみせた。


「じゃあ精々、君たちから目を離さないようにして待つよ。失礼」


 さっと周囲を見た後にクリスが立ち去る。それと逆方向からどこかの令嬢とその母親が勢い勇んでやって来て、ソフィーとヒューバートは顔を見合わせて笑った。


 ダンスフロアに向かいながらヒューバートが認めた。


「確かにあいつには高身長が相応しいよ」

「抜かされたときには散々文句を言ってたくせに」

「文句くらい言いたくもなるさ。だけどまあ、身を守らねばならん敵が多いからな。あれは見張り台だと思えば許せるよ」


 人目を引く砂色の頭がどんどん遠ざかるのをちらりと見て、ヒューバートが笑う。


「いつでも魔法で誤魔化すというわけにはいかないからな」


 フロアに出て兄妹は向き合った。

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