最初のダンス
「そういえば、今夜も素敵だってもう伝えたかな」
クリスがいきなり甘い声で言う。隣で円舞曲の始まりを待ち受けている令嬢が、ぱっとソフィーたちを見た。ハンサムな幼馴染の演技力にソフィーは舌を巻いた。あの観客は喜んで吹聴して回るだろう。
「貴方には敵わないわ。だって」
いつも通り言葉を続けようとして飲み込む。婚約者候補の幼馴染の前で喋り倒しては、深窓の令嬢という呼び名を瞬く間に失うのは明らかだ。
ソフィーはさっと俯いた。恥じらって見えることを願ったが、クリスが忍び笑いを漏らした。あまりに大根すぎたということか。羞恥と少しの後悔とを感じて顔を上げると、笑顔がソフィーを待ち受けていた。他所行きの笑顔だと一目で分かった。
「是非聞きたいな。君に会いに来たんだから……会うのは随分久し振りだろ?」
「クリスったら……一週間しか経ってないわ」
「一週間もって方が正しいよ。僕だけかな、会いたいと思ってたのは」
そこで曲が始まり、フロアにいる貴族たちはそれぞれのパートナーと踊り始めた。クリスがいつもの顔で笑う。ソフィーも倣った。踊っている間の細かな表情など、どうせ誰も観察し抜くことはできまい。眼球にはいかなる魔法も効かない。ドーピングできない唯一の器官が視覚を司っていることは、こういうときにはありがたかった。眼球は物理的に抉ったり踏み潰したりはできるが、魔法攻撃においては『聖域』である。
「台本はもう終わったのね」
ソフィーは低い声で言った。クリスが無言で頷く。共犯者二人は笑い合った。その間にもダンスには全く支障がない。幼い頃から度々一緒に練習したので、久しぶりでも息ぴったりだった。
「残念ながらね。かなり良い雰囲気だったんだけど」
「貴方の相手が務まるような役者はいないでしょう」
「駆け出しだけどなかなか機転が効く子なんだ。表情に自信がないから俯くって、大胆だけど悪くない手だろ」
それで笑ったのかと合点がいき、ソフィーは尋ねてみた。
「将来性は?」
「どうかな。場数が足りてないからね。追い詰められて実力を発揮する子だし」
「場数に関して本人に責任を求めるのは酷じゃない? 釈放されたばかりでしょ、その子」
思わずソフィーが反論すると、クリスは面白がるように目を細めた。
「釈放? 仮釈放だと僕は踏んでるけどな。看守殿は脱獄だと看做してるし」
思わずフロアの外の貴族たちから兄を探しそうになり、ソフィーは小さく鼻を鳴らした。誰かを睨みつけるようなところを見られるわけにはいかない。礼儀知らずと思われては困るし、ソアレン伯爵が見たらどう思うか。
「ところで最近は調べ物に夢中らしいね、ソフィー?」
ソフィーは目を眇めてクリスを見た。
「別にスパイしようってわけじゃないよ」
すぐにクリスが微笑んだ。ソフィーは軽く頷いて後を促した。
「ただ君が何を調べてるか、ヒューが教えてくれなかったのが気になってさ。普通のことなら隠す筈ないから」
あっけらかんとクリスが言う。この幼馴染には正直に話そうとソフィーは思った。ダンスで一瞬距離が接近した瞬間に、ヒューバートを騙している本のタイトルを囁く。
「君ならやりかねないってのが良いね。ヒューは信じ切ってるよ」
クリスは笑い出しそうな顔でコメントした。ソフィーは苦笑いした。
「得るべきじゃない信用をほしいままにしてるわね」
「僕のは得てないよ」
クリスが指摘する。ソフィーは唇の片端だけ上げて一瞬笑った。だがすぐに表情を引き締めてパートナーを見た。幼馴染の勘でクリスが咄嗟に身を屈める。ソフィーは潜めた声で打ち明けた。
「六年前のあの事件について調べてたの。公爵閣下は今も辛い思いをなさってるから気になって」
姿勢を元に戻したクリスは、平静そのものだった。
「確かに人に知られて嬉しいものじゃないね」
「そういうこと」
「罷り間違って僕らの密約に差し障りが出ても困るし?」
「その通りよ。それに今は調べてないの。もうやめようかと思ってる。私がやってることって過去をほじくり返すようなものだもの」
告白した拍子にクリスの燕尾服の袖口から栗色のカフスが顔を出し、ソフィーは思わず渋面になったが、ハンサムな幼馴染は素知らぬふりで会話を続けた。
「僕とのことに縛られる必要はないよ。気が済むまでやってみたら。七年の刑期分、ちょっと我儘になったって良い。君は全部通信教育で終わってしまったんだし」
「私は充分我儘よ」
ソフィーの反論にクリスは首を傾けた。砂色の髪が揺れてきらめく。
「ところで学園にはいつ案内したら良いかな。できれば卒業する前だと面倒が少なくて助かるんだけど」
クリスはあっさりと話を変えた。ソフィーもあっさりと乗っかった。
「明日って言いたいところだけど、シーズンの終わりがけが良いわ。行けばお兄様の監視がきつくなるだろうから、もう少し娑婆を楽しみたいの」
「それにしちゃ、君を中央庭園で見かけたことがないな。あれも社交の場だと知ってるだろ。君のとこのタウンハウスから目と鼻の先だし」
ソフィーは微苦笑した。
社交シーズン中の中央庭園には、貴族たちが集まって社交に勤しむという伝統があった。当然ながら、結婚のために令嬢たちとその母たちがしのぎを削っていることになる。しかもソフィーは所謂貴族学校に一切通えなかったので、時期外れの転校生より尚肩身が狭い思いをすることは、想像するに難くなかった。味方は少ないのに、嫉妬を買う理由だけはあるので、現にローズもソフィーを誘うことはしなかった。
「私には貴方がいるもの。行くのは却って嫌味じゃない?」
「それが難しいところさ。君が余裕なんだという捉え方をする人もいる。今年は元気な筈なのに、社交にまるで興味がないってね。でも宰相とは話してるんだから生意気だとか」
「結構お暇なのね、皆様。話題を提供できたみたいで光栄だわ」
「時間があると人間、下らないことを考えるんだ。何せ、誰かの文句を言ってる間は自分のことで悩まなくて済む」
クリスが辛辣に言った。
ヒューバートと踊ったときに感じた好奇の視線は、強ち間違いでもなかったのかもしれない。ありがたくないことではあるが、自意識過剰でなかったことにソフィーはひとまずほっとした。
「ご忠告感謝するわ。近い内に行くことにする」
「日が決まったら知らせて。僕も行くから」
「良いのよそこまでしなくたって」
「自惚れてくれるなよ」
クリスが厳しい声を出そうとして明らかに失敗した。諦めて微笑んで先を続ける。
「君のためじゃない。君は僕専用の虫除けなんだ」
ソフィーは眉根を寄せた。追いかけられているクリスの姿は記憶に新しい。追いかけている女性たちの姿も同じくだ。
「虫? どちらかっていうとイノシシじゃなかった?」
「イノシシは群がらないんじゃないかな」
クリスがさらりと主張を貫き、ふと思い出したように聞いた。
「ところで僕には変更がないってのは?」
やおらソフィーの頬が赤くなった。
「大したことじゃないのよ。ただこの後ソアレン伯爵と踊ることになってるの」
ソフィーが口早に答えたところで曲が終わる。クリスはからかいたくてうずうずしている顔だったが、お喋りを隠してくれる音楽もダンスもないので、賢くも何も言わなかった。
幼馴染二人はヒューバートと合流した。その場にすぐソアレン伯爵が現れる。ヒューバートは躊躇うような顔をし、クリスはそれを敏感に察知して口をつぐんだ。伯爵も微妙な雰囲気を察したらしく、礼儀正しく
「また別の機会にお声がけした方がよろしいでしょうか」
と申し出た。ソフィーは思わずクリスを見た。
「いや、約束なさってたんでしょう」
ヒューバートに先んじて、少しばかりぶっきらぼうにクリスが答える。婚約者候補としては満点の対応といえた。
「ええ。もちろん、一曲ご一緒したいという思いに変わりありませんが」
動じた様子もなくソアレン伯爵は答えたが、そこで不意にソフィーを見た。少し伏目がちな眼差しは、日頃の目力の強い三白眼でなくなったせいで妙に物憂げに見えた。
ソフィーは思い切って口を開いた。
「踊り終わったらお母様のところへ行くわ。お兄様は予定通りにしてちょうだい。私の子守りは良いから」
思いがけずヒューバートが緩頬する。ソフィーはこの機を逃すまいと、クリスに合図を送った。何処かの令嬢とその母親が人混みを縫って近付いてきていた。
「僕は失礼するよ。少し頭痛がするんだ」
合図を受けたクリスは少し大きな声で言うと、バツが悪そうにソフィーを見た。ソフィーは首を横に振ってみせた。完全なる茶番である。
「お兄様、ついて行ってあげて。何処か休める場所まで……」
「踊り終わったら真っ直ぐ母上のところへ行くんだ。良いね」
結局ヒューバートが次のダンスを黙認する。やや華奢な兄とすらりと背の高い幼馴染を見送り、ソフィーはそっとソアレン伯爵を見上げた。視線に気付いて伯爵がソフィーを見る。今回は目が合うことを予期していたので、ソフィーは緊張こそしたものの冷静だった。
「フロアに行きましょうか」
ソアレン伯爵が誘った。ソフィーは頷き、移動して本日三度目のダンスに備えた。




