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昔話をして

 ふっと目を覚ますと、ベッドの傍の椅子でピアソンが本を読んでいた。カーテンを閉め切ってランプの灯りで薄明るくした室内で、読んでいる本の頁が光って見える。


「お目覚めならお声がけくだされば良いのに」


 ページを捲りながらピアソンが言った。ひっつめ髪からほつれ出たライトブラウンの髪の先が、本にかけた魔法の光で光って見える。しかし近距離での魔法使用の筈が、ソフィーには一切魔力が感じられない。ピアソンは完璧に魔力を制御していた。


「お勉強の邪魔はできないわ」

「この家の方は勤勉ですものね」

「そうかもしれないわね」


 掠れた声が出る。ソフィーは身を起こして水瓶に乗せられた柄杓(ひしゃく)に微熱を放つ手を伸ばした。だがそれより早くピアソンの手が柄杓を取る。


「命じてくだされば良いものを」


 ピアソンが水を注いだ木のコップを差し出す。縁近くまで注がれた水が揺れて、ソフィーは思わずピアソンを見たが、表情が全く変わらないので諦めて受け取った。


「飲み切ってください。汗をかかれたでしょう」

「そうね」


 布団の中に熱気が籠っているのは感じていた。ネグリジェもシーツも代えるべきだろう。汗が冷えては拙い。幸いにして代えはクローゼットに在る。メイドがしてくれるベッドメイキングには遥かに及ばないが、前世の記憶を持つソフィーならば最低限のことはできる。


「体調も落ち着いているし、貴女は少し休んで」

「体を拭くくらいならいたしますよ」

「貴方にそんなことさせられないわ」

「魔法士だって手くらい動かします」


 部屋から追い出すのには見事に失敗した。ピアソンがさっと若草色のローブを脱ぐ。その下の白いシャツの袖を捲ると、少し日に焼けた腕に小さな火傷の痕があった。魔法薬を煎じる時にできたのだと言っていたのを、ソフィーは思い出した。


「じゃあ背中だけお願いしても良いかしら」

「その妙な癖は何処で覚えられたんです」


 呆れた声でピアソンが言った。


「お嬢様は命じる立場でしょう。全身お拭きしますよ」

「貴女はそんなことしなくて良いわ。それくらい自分でできるもの」

「イザベラを起こしたいのですか?」


 そんなことを言われては、ピアソンに従うしか選択肢はなかった。イザベラはソフィーが熱を出している間、誰がなんと言おうと身の回りの世話を全てやってしまうのだ。せめて眠っている限りは寝かせておきたい。ピアソンはそんなことは百も承知なのだろう。


「脅迫だわ……」

「おや、心外ですね。お嬢様が無意味に体力を消費するのをお止めしたのに」


 ピアソンが片手を振ると、熱気を閉じ込めていた布団がソフィーの上から飛んでいった。空中にふわふわと浮かんでゆっくりと回転している。


「ただ座ってらっしゃれば良いんです。ネグリジェも私が脱がせますから」


 ボタンに手をかけた途端に静かな注意が飛び、ソフィーは大人しくピアソンに体を預けた。少しばかり、気恥ずかしい。


「少し痩せられましたか」


 温かなタオルでソフィーの体を拭きながら、ピアソンはそんなことを言った。


「分からないわ……あり得ることだけれど。どうして?」


 サイドテーブルに飾られた、誕生日にオブライエン公爵から贈られた花をぼんやり眺めながら、ソフィーは聞き返した。冴えた青が美しいアネモネ。


 ピアソンは淡々と答えた。


「肋骨が前に熱を出されたときより目立っているような気がしまして」

「変なことを覚えているわね。一年も前のことじゃないの」

「たった一年ですよ。ちなみに一年前も私に拭かれるのは嫌がっておいででした」


 本当に変なことを覚えている。しかし、他意はないのだろう。ピアソンの顔にはおよそ感情というものが感じられない。今読み取れるのは、体を拭くという作業を滞りなく済ませようという集中力だけである。


「だって何だか恥ずかしいんだもの」

「イザベラには全て任せておいでなのに?」

「イザベラは、だって、殆ど私の専属みたいなものじゃない? でも貴方は違うわ……」


 ソフィーは心地良さに目を伏せた。肌に触れるタオルは尚も温かい。


「ねえ、この温かさも貴方の魔法?」

「はい。温かくした石をタオルで包んでいます。焼いた石を使って火傷なさってはいけませんので」

「手間をかけるわね」


 次から暖炉で石を焼こうと言おうとしたのを悟られたに違いない。ピアソンは前職の魔法士と違って、察しが良かった。だからソフィーは尚更、感情を隠すのに苦心しているのだが。気持ち良いわと目を伏せて息を吐く。にっこりと笑ってみせるより、遥かに自然だろう。


 だが、考えまいとしても心の手綱は握れない。この体はなぜ、こうも魔法を拒む。ソフィーは己を呪った。魔法で浄化できるなら、少なくとも、人にこんな手間はかけさせないのに。


「ねえピアソン。学生時代のことで、何か印象に残ってること教えて」

「流石にネタ切れです」


 すげなく返されてソフィーは唇を尖らせた。尖らせてからその無意識の仕草のみっともなさに気が付いて唇を真一文字に引き結ぶ。ピアソンが笑いを噛み殺し損なって不自然に顔を歪めた。


「何でもよろしいのなら」


 誤魔化すようにピアソンが言った。


「何でも良いわ。貴方が話してくれるなら」

「お嬢様向けの話はもう底を尽いたのですが」

「私向けじゃなくて良いわよ。思い付いてる話があるならそれを聞かせて」

「その言葉、後悔なさいませんね」


 引っ込みが付かなくなってピアソンが脅かしにかかる。ソフィーは枕を背もたれに座って、ただじっと、相手を見つめた。


「転移魔法は、失敗すると死んだり、体を失ったりするんですが」


 ピアソンはそこで言葉を切った。ソフィーは頷きだけを返した。


「稀に、全く知らない場所に行ってしまうこともあるんです」


 諦めたようにピアソンは続けた。


「上下とも島がありますが、下は所謂『深淵』で……まあ、光の届かない闇に広がってるんで目視は厳しいんですよ。それで、一定以上高い、あるいは低い高度にある島が島間条例で立ち入り禁止になっているのは━━?」

「━━そうね。一応、知ってはいるわ。幸運にもその規則に悩まされたことはないけど。危険なのよね?」


 ソフィーが皮肉っぽく相槌を打つと、ピアソンは面白がる顔をした。


「そうです。危険な生き物が生息していたり、文明の跡はあっても荒廃していたり、戻った者が原因不明の病に罹患したり、とトラブルが多いんです。そういうわけで、行って失うものが多いので違反者はそういない……というか、まあ死んで違反したかすら分からないのかもしれないのですが、敢えて極下を目指す者はそうそういません」


 死人に口なし。ソフィーは不謹慎な忍び笑いをした。正確な違反者の人数は恐らく誰も把握していないに違いない。


「とはいえ転移魔法に失敗すると、違反してしまうことがあるんです。過去には光に近過ぎる島に行って溶けかけた者もいたとか。私の知人も見事に失敗しまして」


 そこでピアソンの顔付きが変わった。ソフィーは姿勢を正した。話は此処からである。


「『人間牧場』と彼は呼んでいました」


 困惑からくる微笑みでもってソフィーはその見知らぬ単語を迎え入れた。無論、初対面の言葉である。しかし意味するところは至って明快である。低俗な、あるいは、本能的な好奇心で、ソフィーの目が据わった。


「そこは、空が暗いほど、睫毛が凍るほど、寒い島だったそうです。その暗い島を灯りが照らしていたと言っていました。しかしその灯りは、火でもないのに魔力を感じなかったそうで、何故明るいのか原理が分からなかったと。それで好奇心に駆られ、故郷に戻る前に見物しようと考えたのです。自分の能力なら、いつでも問題なく帰れるからと」


 肩をすくめ、ピアソンは一瞬だけ、笑った。


「ざわめきの方へと、彼は進みました。人混みのような音がして……でも少し違う気がして、金属らしい巨大な建物の間を抜けて、音の方へと。建物は一人でに建設されていくようでした。しかし兎に角、音の方へと思って進みました。すると、二十分も歩いた頃でしょうか。巨大な檻が、遠目に見えたそうです」

「檻……」


 聞きかねるほどの呟きと共に、熱を持つ呼気がソフィーの唇を撫ぜて出てゆく。


「近付くにつれ、うじゃうじゃと(うごめ)く薄桃色の何かが見え始めました。嫌な予感はしたものの、どうしてか止まることはできなかったそうです。ですが顔を……一つの顔を見たときに、足は自然と止まりました。顔を認識した瞬間に、漸く何が蠢いているかが分かったのです」


 不吉な予感がした。だのにどうしてか、ソフィーも止めることはできなかった。


「檻の中にいたのは人間でした」


 のっぺりとした声でピアソンは言った。


「その人間たちの体は、毛の一本も生えていないつるつるの皮膚に覆われていて、それで遠目には薄桃色に見えたのです。目を凝らすと━━とても近付けなかったのです━━皮膚の下が、分厚い脂肪と肉とに覆われているのが分かりました」


 ピアソンは今や遠くを見るような眼差しをしていた。


「口はあうあうと、意味のない音を発していました。そうでないものは、下に置かれた箱の中の、何か得体の知れないどろどろしたものをずるずると啜っていました。その口が穴のように暗く見えて、思わず近付いて良く見ると歯がありませんでした。そのことに、歯のないことに気付いた直後、不意に目が合いました」


 恐怖がピアソンの顔を覆った。目が見開かれて顔全体が強張る。引き攣ったような中に戸惑いからくるほんの、ほんの僅かな笑みが、混じっている。


「その瞬間にぞっとして後退りました。およそ知能というものを感じられない目付きが、心底、恐ろしくて。人間なのに人間じゃないと……これは飼育されているのだと、悟ったのです」


 そこでふと、ピアソンの目の焦点が合った。ピアソンが久しぶりにソフィーを見た。


「戻ってきた彼は、真っ青になっていました」


 ピアソンの冗談めかした笑みも言い方も、ソフィーの目には普段通りに映った。それが却って不気味だった。


「手は震えていました。何だか急に老けたようでしたよ。何も話したがりませんでした」


 ピアソンがソフィーを見る。言葉がそこで途切れる。ソフィーには、一体何と言葉を返すべきか、一体どんな顔をすべきか、分からなかった。お互いに相手の出方を窺う数秒間が続く。


 先に沈黙を破ったのはソフィーだった。


「その人は、どうなったの?」


 終わりまで聞かねばならぬ気がして聞いたのに、聞いた瞬間にソフィーは後悔した。だが撤回し損ねる。 


「不眠症になりました」


 ピアソンが答えた。


「悪夢ばかり見るようになったそうです。眠れなくて辛いが、眠っても辛いと言っていましたよ。暫くは睡眠薬で(しの)いでいたようですが死んでしまいました。過剰摂取とのことで自殺だとされましたが、正確なところは分かりません。記憶を探ろうにも、死と同時に頭部が破壊されるように魔法をかけていましたから」


 重苦しい沈黙が訪れる。ソフィーは微熱の頭なりに自分のおねだりを悔やんだ。話したがらないところに無理を言ったのが良くないと思った。ところが程よい謝罪の言葉が思い浮かばない。思い付いたどの言葉もわざとらしかったり大袈裟だったりする。ソフィーは尚更自分を責めた。ピアソンの話題選びを責める気にはならなかった。自分に非があるとする方が、責任ある振る舞いに思えたためだ。だから、何故そんな話をしたのかなどとは、とても聞けなかった。


「そういえばお腹はどうですか」


 いきなりピアソンが聞いた。ソフィーは一瞬頭が真っ白になった。


「厨房にスープが用意されてますが」

「生クリームが使われていないなら飲めそうだけれど……」


 おずおずと返した言葉にピアソンがわざとらしいほどの笑顔で頷く。


「コンソメスープだった筈です」

「ならいただくわ。厨房よね」

「お持ちしますから、どうかベッドでお待ちください」


 立ち上がりかけたソフィーをピアソンはその一言で止めた。


 ピアソンの魔法で清められたベッドに、ソフィーは寝そべった。疾うに残留魔力は抜かれているので、魔力アレルギーでも安心して頬を押しつけられる。籠っていた熱が何処かへ消え去っていて、シーツが少しひんやりと感じられて心地良い。目を瞑りそうになって慌てて身を起こす。

 つるつるの薄桃色の身体。歯のない穴のような口。知能の感じられぬ目付き━━。


「あう、あう」


 試しに呟いてみて、ソフィーは自分の不謹慎さや、その無意味な音にぞっとした。


 考え事はよそうと思い、壁掛け時計を見ると「天玻璃」製の文字盤の色は完全なる闇を示していた。前世でいう真夜中の時刻ではなかろうか。ピアソンに不寝番をさせていることを自覚し、罪悪感に駆られる。慣れている種類の罪悪感だ。ソフィーであってソフィーでない者に、尽くさせているのではないかと。


 体調を崩すと弱気になってしまっていけない。今度こそ考え事をするまいと、ソフィーはピアソンの魔法で清められたネグリジェの胸元をかき抱いて暇潰しになるものを探した。詩集が目に付く。聞いたばかりの話を思い出さぬように、さして好きでもないその詩集を開いて挿絵を注視する。白黒の、上手くもなければ味気もない絵でも、頭を占めるイメージよりは遥かにましという気がした。どうか夢に見ませんように。見るならばこのつまらない絵を。心から祈った。

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