郷愁のペトリコール
ソフィーにとって、誕生日の朝はここ数年いつも気怠い。残念ながら今年も例に漏れなかった。
身体が熱を発しているのが分かる。いや、熱が籠っているという方が近いかもしれない。ソフィーの中で記憶が呼び起こされるための準備なのだ。
解熱後は前世で同年齢の時の記憶が思い出せるようになる。アンロック、という感覚に近い。だから、一週間後には前世で十七歳だった頃のことを思い出せるようになっている筈である。
「お嬢様」
「大丈夫……」
氷嚢が熱い額に心地いい。ふと視線をやると、ベッドの周囲にはすっかり看病の用意ができていた。イザベラがすっかり看病に慣れてしまったのが切ない。普通、メイドはここまでの看病は担当しないと聞く。一般的には魔法医や雇いの魔法士が治療に当たるためだ。だから本来であれば、延々と看病する必要がないのだ。
「いつもごめんね、イザベラ」
「謝らないでください、お嬢様」
解熱などは魔法さえ使えれば一瞬だという。しかし、ソフィーの肉体は治療に関する魔法すら拒む。かといって魔法を一切解さず作られた煎じ薬なら良いかというと、アレルギー反応が出たので使うことができない。薬湯もまた、アレルギー反応が出る可能性を前に使用を禁じられている。八方塞がりなので、氷嚢と氷枕を駆使する他なかった。
「先ほど、旦那様方が到着なさいましたよ」
「あら早起きね……」
「お水を飲まれたら一度お体をお拭きしますね。それから皆様をお呼びしましょう。少し汗をかいておいでですから」
「ええ、ありがとう」
木のコップでソフィーは水を飲んだ。程よく冷えた水が、熱い口の中を通り、喉をすうっと滑り降りて体の中に落ち着く感覚がした。渇いていたことを自覚する。
「ではお拭きしますね」
イザベラにされるがまま、ソフィーのネグリジェが肌蹴られ脱がされていく。汗を吸ってしっとりと温まった布が離れる。外気に晒された肌が冷える感覚にソフィーはぶるりと震えたが、すぐに温かなタオルが肌を温めながら拭きあげていった。タオルが冷めないのはピアソンの魔法なのだろうか。
「気持ちが良いわ」
「何度だってして差し上げますよ」
そうして新しいネグリジェに着替えたソフィーは、王都から殆どとんぼ帰りの家族を部屋に迎えた。三人がベッドの傍に寄る。一様にして不安げな面持ちだ。いい加減慣れたら、と言ってみたい気持ちが首をもたげる。
「気分はどう?」
「悪くないわ……少し暑いくらいで」
答えた呼気が熱い。ソフィーはローズが手袋を外して額に触れてくるのを甘受した。冷え性ではない人だから、少しひやりとして感じるのは熱のせいなのだろう。
「お誕生日ね、ソフィー。十七歳おめでとう」
ローズがさっと笑顔を作る。
「熱が下がったら貴女の好きなケーキを皆で食べましょう」
「楽しみだわ。ねえ、皆様お元気……?」
「ええ、お元気よ。貴女は体調だけ気を付けなさい。良く休んでからいらっしゃいね」
「ありがとう、お母様」
ローズが屈み、ソフィーを優しく抱き締める。化粧品の匂いが僅かにしたが、香水の匂いはしなかった。気遣いだ。ソフィーは少し感動して母の抱擁に応じた。こういう、相手が気付かなくとも構わないという優しさに気付くと、弱い。
「プレゼントとは別に、王都で茶葉を買って来たよ。アイスティーに向いてるそうだ」
ヒューバートがローズと位置を変わった。
「お兄様そんな暇があったの」
「大したことじゃない。必要なものがあれば教えてくれ。三日後くらいにまた来るから」
ヒューバートがソフィーの手を取り、微かに顔をしかめる。日頃は冷えているのが熱いためだろう。
妻と息子とは異なり、ジェラードは居心地悪そうにしていた。しかしソフィーから目を逸らすこともしない。毎年のことだった。
「誕生日おめでとう。しっかり休みなさい」
ジェラードはそれだけ言って、ソフィーの髪を不器用に撫でた。雑ではないが、触れることに慣れていない手付きだ。触れ合いが苦手なためである。無理をしないで、と言いそうになってソフィーは言葉を飲み込んだ。幼い頃にそれを言って以来、ジェラードは尚更ソフィーとの触れ合いを避けるようになっていた。
短い見舞いが済み、ソフィーはまたイザベラと二人きりになった。
「イザベラ、早速アイスティーを淹れてくれる?」
「かしこまりました」
ソフィーの部屋を出かけて、イザベラが振り向いた。そして、少し躊躇うような素振りを見せたが、結局口を開いた。
「そういえばオブライエン公爵閣下から氷菓が届いておりましたが、今召し上がりますか?」
「そうね……アイスティーはやめるわ。冷えすぎてしまうもの」
氷菓。その冷たくて甘やかな響きに、ソフィーの心は躍った。熱を持つ舌に、ひんやりとした氷菓は心地よいだろう。食欲の失せた身には口当たりの良いものがありがたい。
夕刻になると熱が少し収まる。このタイミングでいくつかの記憶が戻るので、ソフィーは思い出したことを小さな手帳に書き込んでいく。誕生日から一週間は毎日だ。
雨粒が窓をノックする。ソフィーは音に応えて窓を見た。常より光の弱くなった白い空は、雨天だ。窓辺に寄って、少しだけ窓を開ける。手を突き出すと冷たい水気に触れた。風が吹いて雨は斜めに降っている。
ふと思い出したのは匂いだった。
高校二年生の夏、乗り換えに使っていた駅でのことだ。黄土色のタイルを気紛れに外へと歩いていった、大雨の日。エントランスに近付くにつれ湿度が高まるのを感じた。まるで、ぬるい霧の中に足を踏み入れたように。とうとう屋根の下ながら外気に触れたとき、思いがけず濡れた土と草の匂いに包まれた。
草いきれ。漠然とそんな言葉を思い出した瞬間は鮮烈だった。覚えている。
一雫一雫の雨音が何重にもなって、まるで一つの大きな音を━━まさに轟くような音だった━━立てて、雨が降っていたような気がする。走り抜ける自動車の音が、殆ど気にならないほどだった。空は灰色に曇り、遠くのビルが白んで見えた。
「寒……」
寒気で我に返る。窓を閉めてベッドに座り、ソフィーはすっかり冷えた手をタオルで拭いた。目だけが、未練がましく窓を見る。
今世のソフィーは、雨の日の外出を禁じられている。オブライエン公爵に会いに行った日は、かなりの例外といえた。
窓の外の庭園を眺める。硝子を雨水が覆ったせいで、ぼやけて見える緑たち。そういえば雨上がりに見たオブライエン公爵家の庭園は、記憶にあるあの日の雨とはまた違う匂いがしたように思う。ソフィーは思い出そうと眉を顰めた。同時に心の片隅で誰かが忠告する。あまり考えない方が良いと。その誰かの声に耳を塞いで、ソフィーは記憶を手繰った。
二つの場所で何が違うかと考えてみれば、全て違う。全て違うと思うのに、毎日使った駅や道を構成する素材は巧く思い出せない。濡れたローファーの底がタイルに滑った不安な記憶が精々だ。
もどかしかった。ソフィーの眉間に、唇の両端に、奥歯に、ぐっと力が込められる。あの景色には記憶の中でしか会えないのにぼやけていく。思い出したいのに掴めない。思い出せない内に風化していく。自覚していないだけでどれだけの記憶を失っているのだろうか。どうして自分はこんな思いをしているのだろう。いっそこんな記憶などなければ━━ソフィーはかぶりを振った。なければ良いなどとは、嘘でも考えたくない。
堪らないもどかしさは消えない。歯痒い。満足に思い出せない現状のもどかしさに、周囲をよく見ていなかった過去の自分への苛立ちにソフィーはますます顔を顰めた。もっと周囲をよく見ていたら詳しく思い出せた筈だ。だのに、偶然記憶が蘇る奇跡に賭けるほかないなんて。何も知らずのうのうと生きていた過去の己への感情を、ソフィーは一瞬判断しかねた。苛立ちでは少し違う気がする。不甲斐なさだろうかと思ってすぐ、相応しい答えが浮かんだ。
嫉妬だ。
嫉妬で余計に苦しいのだ。答えは出たのに、名前がついたことでまた不快になる。
こうなると長かった。普段は考えまいとしているもどかしい感情は、一旦ソフィーを捕らえるとなかなか離してはくれない。
ソフィーは悔しさで目に付いた木のコップを掴んだ。掴んだその手を握りしめる。だがどんなに力を込めても軋みもしない。なめらかで硬い木の表面に、いたずらに掌を押し付けているだけだ。やわい指の腹が、コップのカーブに沿って形を変えるのみだ。却って腹立たしさが募って振りかぶり、投げつける直前でぎゅっと目を瞑った。
どうなるか考えろ、とソフィーは心の中で呟いた。
こんな癇癪で起こされる使用人のことを想像する。それで自分がどんなにバツの悪い思いをするかも。後悔する━━果たしてそうだろうか。ソフィーは訝り、鼻で笑った。自分の性格は分かっている。後悔などという殊勝な思いは、羞恥の後にしかやって来ない。
ぎりぎりとコップを握り締めた手を、サイドテーブルに伸ばす。コップの底を半ば押し付けるようにテーブルに置いて、手を離した。締め付けから解放されたコップが、ゆらゆらとぐらついてから安定する。そのさまをソフィーは眺めた。
アスファルト。
ソフィーはいきなり思い出した。思い出すなり、そうに違いないと思った。アスファルトの有無が匂いに違いを生んでいるのではないか。
癇癪を我慢して良かった、とソフィーは態々考えた。これまで思い出せなかったアスファルトのことを思い出せたのだ。充分な収穫だと自分に言い聞かせる。発散されずに燻る怒りからは目を背けた。いつものことだった。癇癪との付き合い方は分からないままだ。
ぼすん、と音を立て、ソフィーは体をベッドに横たえた。窓を、そしてその向こうを見つめる。雨足に変化はない。硝子の表面を雨水が濡らしながら流れ落ちていくのを、まんじりともせず眺める。
次第に燻る怒りが気にならなくなっていった。怒りが過ぎ去った後特有の、あの不思議に凪いだ心持ちで、ソフィーは改めてあの匂いを思い出した。
ちっとも好きではなかったアスファルトが、あの日嗅いだ匂いに混じっているかもしれないと思うと、妙なことだが恋しい気がした。




