援護射撃
図書館から帰宅後。湯浴みの後、魔法で髪を乾かしてもらって、ソフィーは一息ついた。髪は魔力アレルギーが出ない数少ない部分だ。とはいえ、頭皮に触れない繊細な魔法の使い方が求められる。しかしピアソンがその調節を失敗したことは一度としてなかった。
「いつもありがとう」
オルドリッチ伯爵家お抱えの魔法士ピアソンに礼を言って下がらせる。ソフィーはこの女性を密かに尊敬していた。
「イザベラ、貴女もありがとう」
次にソフィーはイザベラに声をかけた。
「今日は付き合わせてしまって悪かったわね」
「いえ……夕食はお召し上がりにならないのですか?」
「もうお腹が空いてないのよ」
「お昼もそう仰ってました」
イザベラの整った顔に渋面が浮かぶ。
「朝食しかお召し上がりになってないではありませんか」
「お茶菓子は食べたわよ」
「あれは摘んだだけという方が適切ですわ」
「紅茶を吸って膨れたのかしらね」
まぜっ返した瞬間に、元の世界で食べたインスタントラーメンを思い出した。芳ばしい匂いがして、チープなようで妙に中毒性があり、お湯を吸って増えるラーメン。食べたいという気持ちと、腹がいっぱいになった気持ち悪さが同居する。それでも懐かしさが勝る。
「何も召し上がらないなんてお体に毒です」
「食欲がないの。もう眠たいのよ」
「もしかして体調がお悪いんですか」
深刻な声を出されて不快感をおぼえ、感情を誤魔化すためソフィーは顔を逸らした。一呼吸置いて、イザベラから見えにくいように笑う。咄嗟に笑うだけの余裕はなかった。
「なぜ笑ってらっしゃるんですか」
「だって貴女、心配しすぎなんだもの」
笑いを含んだ声を出せたことに安堵しながら、ソフィーはイザベラを見返した。
「お兄様やお父様なしの外出が楽しくて……あんまり楽しかったから、その分疲れてしまったのよ。だから今、食事よりも睡眠を欲してるだけのことじゃない」
イザベラが眉根を寄せる。
「でしたら、朝までぐっすり眠れるよう、スープだけでも召し上がりませんか」
「スープねえ」
「今日はお嬢様のお好きなコンソメスープだそうです」
それは譲歩だった。あの手この手でソフィーに食事をさせようとするイザベラにしては珍しいことである。大抵の場合、半量で用意するから食べるようにと言ってくるのだが。
「分かったわ」
「ではすぐお持ちします」
途端に華やいだイザベラの表情は、まさしく勝利の笑みだった。
翌朝。イザベラが勧めたスープのおかげか、ソフィーはすっきりとした気分で目を覚ました。朝といっても、常に白夜であるこの世界には朝日も何もないが、閉め切っていた厚いカーテンを開くと気分が晴れる気がしなくもない。
「おはようございます、お嬢様」
窓から差す光を受けて、イザベラの赤毛が美しい。目の緑が、髪の橙に近い赤に良く映える。補色によるものだろうか。ソフィーが緑溢れる庭園の散歩にイザベラを伴うのはそのためでもあった。
「おはよう、イザベラ」
挨拶を返し、ソフィーはベッドの上で紅茶を楽しんだ。ビスケットはつけない。朝食のためだ。胃に空きを残しておかないと、家族に食欲がないことを心配される。もっと食べなければいけないという小言には閉口していた。
イザベラに手伝われて身支度を済ませ、階下に降りる。食堂には既にヒューバートがいた。
「おはよう、ソフィー」
「おはよう、お兄様」
「昨日は図書館に行ったんだって?」
「ええ。あんまり楽しかったから疲れてしまったわ」
肩をすくめるヒューバートは、それ以上追及することをしなかった。ソフィーはほっとして気を緩めた。誤魔化しはまだ効いていると見える。以前話した例の小説の調査だと判断しているのだろう。サディズム、マゾヒズム、スカトロジー、その他エトセトラ。良識ある人間を自称する者が眉を顰める内容が含まれている。父母に聞かれれば面倒なことになるのは目に見えていた。
「そういえば父上に何か言ったのかい?」
「どうして?」
「昨夜、妙に悄気ていたからね」
「投資が失敗したんじゃない?」
「そういう情報は聞かないが」
首を傾げるオルドリッチ伯爵家兄妹の耳に、階段を降りてくる足音が聞こえた。二人分かに思われる。間もなくしてジェラードとローズも食堂に合流した。
挨拶を交わし、オルドリッチ伯爵家の四人は食事に取りかかった。食事中の話題は、湖や川での漁獲量に集中した。この世界には海がない。養殖がなかなか上手くいかないそうである。ソフィーは内心で笑いを噛み殺した。
今日の昼頃、ソフィーを除く家族三人と使用人の大半が王都へ行くのだ。その話題を避けているのは明白だ。盛り上がりというものに欠けている。もちろん、気遣いから来るものだとは分かっているが、これから先もこの妙な気遣いを受けるのかと思うと憂鬱だった。
憂鬱さから、足掻いてみたくなるほどに。考えてみれば交渉を諦める理由はない。
「今年は私も王都に行けたら良いのに」
食堂の空気が一瞬で張り詰める。ソフィーは唇を柔く引き結び、眉間に皺が刻まれない程度に眉に力を込めた。大きく末に向かって広がった、八の字に見えるように。
「そうね」
ややあってローズが応える。その哀れみの眼差しに、ソフィーは微笑みを返した。今度は、無理に笑っていると見えるように。ジェラードは気付かなくとも、ローズは笑顔に込めたメッセージを読み取ることができる。
「体調が安定していたら、今年は参加しましょうか」
「ローズ」
「毎年閉じ込めていたって仕方がないでしょう。実際、体調が悪いのは最初の一週間くらいだわ」
「時折微熱をだすだろう」
「月に一度ですぐ下がるじゃない」
珍しく食い下がるローズに、ジェラードの声音があからさまに説得する調子になった。
「ソフィーは社交界で結婚相手を探す必要はないんだ。何より王都は魔法に満ちていて魔法医しかいない。危険なんだよ。この子を見られる医者はいないんだ」
「安静にしなさい、氷枕を使いなさい、消化の良いものを食べなさい。こんなことしか仰らないお医者様のことを言っているの? 私でも分かることよ」
驚くべきことに、ローズはたおやかな笑みを全く崩さずにジェラードとやり合っていた。ローズだけ見ればお喋りに興じているようにすら見える。しかし、オルドリッチ伯爵家の兄妹は口を挟む隙を見つけられずにいた。
「君は分かっていないんだ、ローズ」
「分かっていないのは貴方の方よ。外に味方がいないというのがどれだけ恐ろしいか」
「私は命の話をしているんだ」
「いいえ貴方のエゴよ。ソフィーの意思を無視しているじゃない」
「エゴだって」
ジェラードの顔が怒りで歪んだ。だが、ローズは全く意に介さず、尚も微笑んでいた。
「ソフィーは貴方の所有物ではないのよ」
「そんなことは分かっている」
「本当に? 私にはとてもそうは見えないけれど」
ヒューバートがソフィーに目配せした。食堂を出ようと言っているのだ。ソフィーは拒もうと首を横に振ったが、ローズが微かに首を振ってみせたので、大人しく食堂を後にした。
「驚いたな。母上があんなに口が立つとは」
笑っているヒューバートをソフィーは眺めた。兄の顔が微かに引き攣る。それで、自分が冷ややかな眼差しをしていることを自覚したが、誤魔化そうとは思わなかった。理解してほしいとも。
何か言葉を考えているらしいヒューバートを置いて、ソフィーは自室へと引き上げた。
朝食後暫くして、貴族名鑑を使ってイザベラにクイズを出してもらっていたソフィーの部屋に、ノックの音が響いた。
「どうぞ」
迎え入れたものの、思いがけない来訪者にソフィーは少しばかり驚いた。
「お父様」
ジェラードがソフィーの部屋を訪れることは多くない。それも、王都への出発を控えている今、来るとは。苦言だろうかと思いながらソファにかけて向き合う。
「私はお前に随分と我慢をさせてきたようだね」
気まずそうな声だった。意を図りかねてソフィーは目を瞬いた。ジェラードが微かに笑う。
「王都へ来たいのなら来て良い。医者は手配するから。体調にだけ気を付けてくれ」
一体どういう風の吹き回しなのか。本来なら諸手を挙げて喜びたい所だが、疑念が湧いたソフィーは考え込んでしまった。医者を手配すると言っても、魔法を使わない医者の数は限られている。
「あまり嬉しくはなさそうだね」
「いえ……あまり驚いたものだから。それにお医者様には他の患者もいる筈だから、私のために王都に連れて行くわけにゆかないでしょう?」
ジェラードがソフィーを見つめる。いや、見つめているようで遠い眼差しをしていた。物思いに耽っているようである。ソフィーは冷める前にと紅茶に口を付けた。
「そうか。お前は私が思っているよりずっと実際家だったんだね」
ぽつりとジェラードが言った。実際家。初めて向けられた言葉である。箱入りの自分には勿体ないような気すらする。しっかり者のセシリアの半分だって地に足がついていない自覚はあるのだ。
「そうかしら」
「他の患者への配慮が咄嗟にできたじゃないか」
王都行きたさに領民を切り捨てると思われていたとは心外である。しかしソフィーはあくまで微笑んでみせた。
「当然のことだと思うわ」
「子供だとばかり思っていたのになあ」
感慨深い声の出し方だった。
どうやらジェラードは本気のようだ。ローズの弁舌を見逃したことが悔やまれる。母は能ある鷹だったということだ。しかし子供らが見ている前で本気の口論は難しかったのだろう、とまで考えてから、もしかすると見せて真似をされたくないという打算もあったのでは、と思い至り、ソフィーは密かに震えた。
「私が社交界への参加についてどう想定していたか、聞いてくれる?」
鷹が態々くれたチャンスならば尚更、そのまま飛び付くだけでは勿体ない。ソフィーは理性あるところを示すため、まずは控えめな言い方で尋ねた。
「勿論だよ」
ジェラードが頷く。ソフィーは自分を落ち着かせるために微笑んだ。焦ってはいけない。ただでさえ元から高い声で説得力が欠けているのだから、その上早口になるわけにはいかなかった。
「シーズン初日から参加したいとは、考えていないの」
ゆっくりと言って、しっかりとジェラードの目を見つめる。
「例年、翌日の誕生日に熱を出していたでしょう。一度顔を出しておいてタウンハウスに籠るなんてことになったら、病の印象が強まってしまうわ……。招待状も届きにくくなるでしょうし、もしかしたら、病を伝染されるのではと皆様にご心配をおかけしてしまうかもしれない。それは、避けなくてはいけないでしょう?」
ジェラードに問いかける形を取ることでゆったりと間を取り、ソフィーは自分の考えを明かした。
「だから体調が落ち着いてからの参加が望ましいと考えていたのよ」
ほう、とジェラードが息を吐く。先刻から一口も紅茶に口を付けていなかった。冷めてしまうからと飲むよう促そうとしてやめる。飲食は集中力を妨げる。
「それで、体調が落ち着いたと判断する基準について考えていたの」
話題が変わるのを示すため、また少し間を取る。
「念のため、熱が下がってから一週間、平熱で、食欲も取り戻せていたら、社交界に参加することができるんじゃないかしらって……勿論、どの招待に応じるかはとても難しい判断になるのだけれど……」
これ以上は蛇足だと悟り、ソフィーは口を閉じた。ジェラードの表情に何か誇らしげとでも呼ぶべきものが滲み出ていた。もう、何かを説明する必要はなかった。




