衝突の午前十一時
ソフィーの誕生日が近付くにつれ、毎年オルドリッチ伯爵邸にはそわそわと落ち着かない空気が流れる。ソフィーが誰も彼もに見られている錯覚に陥るほどだ。
一週間ベッドの住人にはなるが、熱さえ下がれば体調に特段の問題はない。これは、ソフィーの主観ではなく医者との共通認識である。しかしそのことを、邸の誰も理解しようとしなかった。どちらかというと楽観的な母親のローズさえ、落ち着かない様子を見せる。回復後も一ヶ月は庭園より外への外出を制限されなくなるのだから堪らない。
そういった理由から、過保護なヒューバートが外出したのを確認するなり、ソフィーはジェラードのいる書斎へ直行した。説得されてくれたローズを伴って。
「町へ行くのか……」
渋面をつくるジェラードが、駄目だという理由を探しているのは分かりきっている。毎回のように見てきた、もう見飽きた表情。
「今の内に図書館に行きたいのよ、お父様。寝込んでから向こう一ヶ月は自宅療養でしょう?」
「まあ、健康を取り戻すためにな」
「では熱が下がれば外出しても構わない?」
「それはお前の体調次第だよ」
嘘ばっかり。そう言ってやりたいが、交渉しに来たのにそういうわけにもいかない。
「なら自宅療養で読む本が入り用になるわ。図書室の本は粗方読んでしまったもの」
「ジェラード、今日くらい行かせてやりましょう。私達はこの子を閉じ込めすぎだわ」
ローズが援護射撃した。
「そもそもこの子は社交界にだってろくに出られていないのよ。知っている世界が狭すぎる」
「だが今年は暖かくなるのが早かっただろ。この子は繊細なんだ。今日だって体調を崩しかねないよ」
暖かくなって体調不良? そんなことは今までなかった。笑わせるつもりなら失敗だ。面白くもない冗談である。
「そんなに弱くないわよ」
冗談めかすつもりが、思わず言葉が震えた。
繊細。反芻すべきでないのに反芻してしまう。耳触りの良い、腹立たしい言葉だ。頬が熱くなる。それで漸く、ソフィーは自分が混乱しているのでなく怒っているのに気が付いた。
「ソフィー?」
「閉じ込めている内に縁談が来たじゃない。このままこんな世間知らずを嫁に出すなんて、恐ろしくはないの? 私は怖いわ。怖いし、嫌よ」
ジェラードが微かに瞠目する。驚いているらしかった。
「お前は外出したかったのかい?」
「そうでないなら何かしら? 私が外出許可を得に来るのは挨拶だとでも思ってたの?」
堪らず噛み付いた。ジェラードがしどろもどろになる。
「いや……食い下がることがなかったからだな……」
「本気じゃないって? ねえお父様、心配されていると分かってて反対を押し切れると思う? 貴方の娘はそんなにも身勝手なの?」
黙り込んだ父親を見て、ソフィーは情けなくて苦しくなった。自分は一体、何に遠慮していたのだろう。
「言うこと聞くだけ馬鹿みたい……」
「ソ、ソフィー、待ちなさい」
ドアからほとんど出かけていたソフィーは、振り向いた。
「何故? もう散々待ったわ」
絶句する父親を振り切って、ソフィーは書斎を後にした。ついてくるローズは何も言わない。それにすら腹が立った。苛立ちからずんずん歩く。はしたないとでも注意されたら言い返してやろうと思った。
「止めても行くわよ」
「止めないわよ」
想定外の返答だった。期せずして毒気が抜かれる。
「えっ……どうして?」
「貴女が諦めないのは珍しいもの。やっと反抗期が来たわね」
ローズがころころと笑う。その無邪気な様子につられて、ソフィーの顔の緊張もゆるゆると解けた。頬の火照りはさておいて、頭の中がすっと冷えていく。
「行ってくるわ、お母様。夕方には戻るわ」
「気を付けて行ってくるのよ。馬車でイザベラが待ってるわ」
「イザベラが?」
ソフィーの記憶が確かなら、イザベラは非番の筈である。
「別日に休日届けを出すそうよ」
「もしかしてイザベラに命じたの?」
「いいえ、私はジョイスに声をかけたの。だけど数分後にイザベラから行かせて欲しいと言われたのよ」
「そう……。ありがとう、お母様」
ジョイスを誤魔化すのに既に罪悪感をおぼえていたソフィーの心が、少し軽くなった。
「ソフィー!」
もう邸から出ようという所で、ジェラードの声が響いた。しつこくも止めに来たらしい。無視して出発しようとして、ジェラードの右手の紙が目に入った。
「ほら、これを……お小遣いだ。好きに使いなさい」
安っぽい笑みと共に差し出されたのは小切手だった。ソフィーは不快感をおぼえ、手を出すことをやめた。ジェラードが怪訝な顔をする。男尊女卑の四文字がソフィーの頭を掠めた。服でも菓子でも好きに買わせれば機嫌を直すと考えているらしい。いや、ソフィー個人に対する侮辱と取るべきかもしれない。何にせよ、これなら制止に来られた方がましなくらいだった。
「遠慮いたしますわ。では失礼します」
ジェラードの顔が強張る。ソフィーの怒りの理由は分からなくとも、怒っていることは分かったに違いなかった。




