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森林浴

 木の葉擦れのさわさわという音に包まれ、綺麗な小川のせせらぎに耳を傾ける。ソフィーは今、クリスにつれられてダーレントンの森の少し深い所に来ていた。川底が明瞭に見えるほど透明な水に指先を浸す。流れていく冷たさが指の間をすり抜けてゆく。清らかな温度。木漏れ日で優しくきらめく水面が美しい。


「そこで泳ぐのはお勧めしないな。意外に泳ぎが巧いのは認めるけど」

「こんな浅くて冷たい小川で泳がないわよ」


 ソフィーはクスクス笑って冷えた指を小川から引き抜いた。そよ風で尚更指先が冷える。ハンカチで水気を拭き取った。


「町には行けても森には行かれないんだろ? すごく良い顔をしてる」

「ええ、森に関しては家族全員が反対するの。お兄様はいつものことだけれど、お母様もなのよね」

「此処なら妖精はいないから安心して良いよ」

「クリスまで揶揄(からか)うの?」


 振り向くと目が合った。薄い水色の目が、静かにソフィーを見つめる。(こけ)むした岩や草木を背景に、少しだけ緑色を帯びて見えた。


「いつか、オルドリッチの森に行ってみた方が良い。とても綺麗で静かな場所だから、できる限り一人で行くのをお勧めするよ」

「行きたいけれど言い訳がないわ」


 悔しさが(にじ)んだソフィーの声に、クリスは真剣な顔をした。


「森の近くの村に、君の好きな山菜を供する宿があるんだよ。殆どの村民が魔力を持たない村だから君一人で行ったってそれほど問題にはならない筈だ。日帰りで良いから食べたいと御者に頼めば良い。それくらい我儘にはならないから、護衛だって頷く筈だ」

「私の足で使用人たちを撒けるかしら。護衛は駿馬(しゅんば)に乗っているのよ」


 クリスが思わずというように噴き出した。水を飲んでいた鹿毛の馬がびくつく。それを(なだ)めるように撫でながら、笑いの余韻が残る顔でクリスが口を開いた。


「せっかちだね。最後まで聞いてくれよ。僕と待ち合わせするんだ。馬で村から森まで送るから」

「どうかしら。知られたらとても……まずいと思うわ」

「ばれなきゃ良いさ。ばれたら僕らで結婚すれば済む。行く気になったら教えて。村娘らしい服も用意してあげるから」

「本気なのね」


 禁じられていたオルドリッチの森行きがにわかに現実味を帯びたことに、ソフィーの気分は高揚した。


 話題に上がる度、家族からは小馬鹿にするように揶揄(やゆ)され、ソフィーが知りたがると叱られ、遠ざけられて来たのだ。幼い頃は度々遊びに行った記憶があるだけに、悲しかった。年々、森の記憶そのものが朧げになっていっているだけに余計に寂しくもあった。


「行くわ。手紙を書くわ。じきに誕生日だから、ほとぼりが冷めるまで待たせてしまうでしょうけど」

「良いよ。待っているから」

「クリスはいつも親切ね。貸しばかり溜まっていくわ」

「そうでもないさ」


 にっこりと笑ったクリスが伸びをした。


 ソフィーはふと、低い木立の間の小さな影に目を凝らした。小動物のように見える。見つめていると、影は木立から飛び出した。影の正体に気が付いてソフィーは微笑んだ。


「ウサギだわ」


 灰色がかった茶色の野兎が、ソフィーから二メートルほどのところまで跳ねて来て止まる。そして後ろ足だけで立った。くりっとした黒い艶やかな目から確かな視線を感じ、ソフィーは野兎を見つめた。すると、まるで恐れを知らぬかのように、野兎は前足を地に下ろして、ひょこひょことゆっくり近付いてきた。


「貴方、怖くないの?」


 聞きながらソフィーはしゃがんだ。野兎は完全に木陰から出て、ソフィーたちのいる川べりまで来た。木漏れ日で耳が透けている。ピンク色をした薄い耳に血管が通っているのが、はっきり見えるほど近い。


 野兎はソフィーから目を離さず近付いてくると、とうとう触れられる距離まで来た。ソフィーは恐る恐る手を伸ばした。流石に逃げるだろうと思われたが、指先が野兎の背に触れる。それでも尚、野兎は逃げようとしない。試しにそっと撫でてみると、体毛の柔らかさとぬくもりが掌から伝わった。


「随分と人に慣れてるのね、貴方」


 撫でながらふわふわとした感触を楽しんでいる内に、ソフィーは野兎が小柄なのに気が付いた。


「まだ子供なのね。駄目よ、こんな風に人間の前に来ちゃ」


 しかし、叱ろうとしても声が甘くなるほど野兎は愛らしかった。ソフィーは同意を求めて無言を貫いているクリスを見た。だが声をかける前に後ろから軽く押されてしまって口をつぐむ。一体何ごとか、と振り向くと一頭の雄鹿がいた。角は既に落ちている。


「クリス。此処には人間が良く来るの?」


 呆気に取られてソフィーは聞いた。雄鹿の潤んだ大きな目は、自分に興味津々に見える。


「いいや。私有地だからそうそう来ないよ。僕が遠乗りするくらいで」

「そう……ちょっと、食べ物なんか持ってないわよ」


 雄鹿が距離を詰める。ソフィーは立ち上がろうとしたが、それより先に野兎がスカートに飛び乗った。振り落とすわけにもいかず、鼻面を寄せてくる雄鹿を受け止める。こちらは撫でると危ない気がしてやめた。忠告だけする。


「貴方もう大人でしょう。人間なんかに近付いちゃ危ないわよ」


 野兎をスカートから下ろして、ソフィーはゆっくり立ち上がった。立ち上がった拍子に木の枝にいる栗鼠(りす)に気が付く。栗鼠の方でもソフィーを見ていた。


「リスがいるわ」


 枝から枝へ走る栗鼠をソフィーは目で追った。驚くほど素早いのに、落ちることはおろか、木の節に躓くこともない。雄鹿に軽く突かれたが、ソフィーは素知らぬふりをした。


「リスだけじゃない。カワセミもいるよ。チョウも飛んで来たな」

「チョウ? 近付いて来ないと良いけど……」

「無理だろうな。ほらどんどん寄ってきてる。場所を移りたい?」


 ソフィーは首を横に振った。オルドリッチ伯爵家では馬以外の生き物を飼っていない。森の生き物をもう少し眺めたいと思った。


 クリスが動物に囲まれるソフィーを見て笑みを浮かべた。


「そろそろ君の初恋の話をしようか。友達らしく」

「クリス」


 その瞬間、野兎がソフィーから少し距離を取った。


 微笑んだ顔を傾けるクリスは、物語の中から出てきたかの様に、絵になっていた。


「怒らないでくれよ」

「怒ってない。それに私、恋はしてないわ」

「そう?」

「閣下を哀れんでるだけ」


 微かに目を見開くと、また微笑み、クリスは歌うように言った。


「哀れみは恋に近いらしいよ」

「貴方はどうしても私に恋をさせたいの」

「僕だって君が恋する姿を見たいんだ。やられっぱなしじゃあな」


 一瞬、白く強い光がソフィーの目を灼いた。クリスのカフリンクスが木漏れ日に反射したのだった。明るいブルーのカフス。ソフィーがクリスに贈ったカフスは、どれもこの手の色合いだ。どれも、というほど多くはないが。


「またカフスを贈るわね」


 ソフィーが強引に話題を変えても、クリスは文句を言わなかった。


「リクエストしても?」

「もちろんよ」

「では次は暗い栗色を」


 暗い栗色。一瞬、頭の中の貴族名鑑を繰りかける。だが、水色の目が自分を見つめているのに気が付き、ソフィーは口元を緩めた。


「理由を聞くのは野暮かしら」

「僕が栗色を好むのは有名でね。このタイミングでもう少し、攻めてみるべきかと」


 冗談ではなかったのか。悟ったソフィーの顔はさっと強張った。雄鹿が脇の下に顔を差し入れてきて我に返る。


「どうかしら……提案した私が言うのも何だけれど、ちゃんとした場では色付きのカフスなんて使えないじゃないの」


「誰だってうっかりすることはあるよ。社交界に恋人から贈られたカフスをうっかり着けていくのは、それほど珍しくはないんだ。最近はね」

「最近?」


 木立の間へ去り始めた動物たちを見送りながら、ソフィーは聞き返した。


「少なくとも去年は。もちろん王家主催じゃうっかりは許されないけど、それほど正式でない場なら」

「うっかりね……」


 ソフィーははいはいと頷いた。想像できなくもない光景だ。惚気話の種にするのだろう。いざとなったら、雇っている魔法士に魔法をかけさせるか、魔法に覚えがあれば自分で白く変えてしまえば良いのだ。だが、心配なのはそんなことではない。はっきり伝えなくては。ソフィーは表情を引き締めた。


「でも……私が言うのもおかしいけれど、公爵閣下を敵に回すようなものなのよ」

「その閣下の趣味が変わったらしいんだ」


 クリスが手を伸ばしてソフィーの髪に触れた。結い上げずに編み下ろしたブルネットが揺らされる。


「黒はやめたらしくてね。近頃は暗い栗色で服を仕立てておいでらしいよ、先方は」

「栗色の目も髪もありふれてるわ。私だけじゃない」

「それでも社交界は、君を意識してのものだと理解するだろう。僕がこれまで通りでは、君は外堀を埋められかねない」


 ソフィーは敢えてクリスの顔から視線を外したが、自分の横顔に変わらず視線が注がれているのをひしひしと感じた。


「後手に回ってはまずいんだ。君の本命が閣下だという空気になれば、時間稼ぎは至難の業になる。僕が片想いの道化だと思われては、君の防波堤になれないんだよ」


 冗談ではない本気のリクエストだと悟り、ソフィーの顔は強張った。結論を先延ばしすることしか考えられない。


「数日後には社交シーズンよ。今更、社交界に相応しい品を用意するなんて難しいわ」

「作ってくれという話じゃない。難しく考えないで選んでくれれば」


 ソフィーは何を言えば良いのか分からなかった。それ所か、自分が何を言いたいのかすら。


「このブルーは貴方に似合ってるのに」


 どうにか絞り出した言葉は、何だか子供っぽく響いた。クリスが少し苦いような顔をする。


「ありがとう。でもリクエスト通りに頼むよ」


 そこまで言ったクリスが、ふと首を伸ばして後ろを見て、破顔した。


「ご覧、ソフィー。やっと来たよ、君の騎士が」

「悪い人ね。暴れ馬を宛てがったんでしょう」

「仕方ないさ。僕らはもう、気軽に二人にはさせてもらえないんだから。それに、ヒューなら大丈夫だと信じていたし……」


 水色の目を細めて、クリスが近付いてくるヒューバートを見つめる。その表情が、何だか白い綿毛でも吹き付けて困らせてやりたくなるくらい、絵になっていた。優しい横顔が綺麗で、いっそ清らかである。スマホなどと贅沢は言わないが、この世界にカメラがないのが悔やまれた。


「クリス! 帰りは馬を代えてもらうぞ!」


 ヒューバートに怒鳴られて尚、クリスは涼しい顔をしていた。待ちくたびれたのさ、とあっさり言ってのけることまでした。そうして、暴れ馬━━こちらも鹿毛である━━を迎え入れて撫でながら笑っている。


「ヒューは相変わらず動物に好かれないね。こいつは足も速いし毛並みも良いしで、乗りこなせたら絵になるのに」

「それは認めるが、鹿毛の馬はそう珍しくもないだろ。お前は鹿毛しか乗らないが、白馬の方がさまになるのに」

「珍しくなくても良いさ。この毛並みが気に入ってるんだ」


 それは、限りなく優しい声音だった。

今日明日のうちに続きを投稿する予定です。

読んでくださってありがとうございます。

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