『救世の使徒』
「お嬢様?」
はっと我に返ったソフィーの視界に、案じるようなイザベラの顔があった。
「ごめんなさい、少しぼんやりしてたわ」
「それを仰るならお帰りになってからずっとぼんやりしてらっしゃいますわ。雨でお体が冷えたのでは?」
「いいえ、それは大丈夫なのよ。考え事をしていただけ……」
イザベラが気まずそうに盆を下げようとする。用意されている紅茶の湯気で、メイド服が一瞬白くぼやけた。気を利かせてくれたらしい。
「ありがとう、いただくわ」
紅茶と共に用意されていたのは、オブライエン公爵が土産にと持たせてくれた菓子の一つであった。
気を取り直し、ソフィーはイザベラを見上げた。
「ねえ、私に何か話したいことがあるんじゃないの?」
「それは……そうですが、お疲れでは?」
「気になったまま過ごす方が疲れちゃうわよ」
促してみるも、イザベラの顔は物憂げなままだった。心配しなくて良い、と言葉を重ねようとして、すんでのところで呑み込む。イザベラが話そうとしていた。
「調査のことで……『悪魔の少年』の原因は宗教ではないかと、思うのです」
「えっ?」
「その、信者の人が、悪魔が見た目の年齢を偽ったのだと言っているのを聞いたことがあって」
イザベラのすらりと長い指が、手首に巻かれたリボンを撫でた。
「当時、一部地域で新興宗教が広がりつつあったんです。オルドリッチには広まらなかったので、お嬢様がご存知ないのも当然なのですが」
「全然知らないわ。一部地域って……?」
「故郷のウォルポートでも流行っていたと聞きました」
遠くを見るような眼差しでイザベラが続けた。
「確か『救世の使徒』という団体だった筈です」
一瞬ただの音として拾ってしまうほど、ソフィーには馴染みのない単語だった。ああ救世かと思い直す。
「今もあるのかしら」
「近付いてはいけません」
イザベラが急いで言った。
「危険なの?」
緑の目が斜め下を見る。
「腐敗貴族を敵とすることで、民衆を取り込む手法を取っている団体です。オルドリッチには無縁の話とはいえ、信者の大半が貴族の方と直接の接点を持ちませんので、すべからく貴族に、そして貴族に仕える者たちに、敵意を持っている可能性がございます」
滔々となされた説明はあまりにまとまっていた。
「もしかして勧誘されたことがあるの?」
ソフィーは思い切って切り込んだ。イザベラの顔が苦しげに歪む。
「いいえ。母からの手紙にそう書かれていたのです。よくよく注意するようにと」
ソフィーははっとして、かける言葉をなくして俯いた。イザベラがきっと何度も手紙を読み直したのだというのが察せられる。肖像画を描かせられるような貴族や富裕層と異なり、庶民は手紙でしか、亡くした人と会うことができないのだ。
「素晴らしいお母様ね」
「そうなんです」
すらりと長い指が、黒いリボンを弄る。
「お嬢様、どうか救世の使徒には近付かないでください。本当に危険なのです。先ほどお話しした信者も、今は辞職したと聞いています」
それだけで、ソフィーには件の信者がおそらくはイザベラの同業だと予想できた。そして別の貴族に仕えていたであろうことも。
「でも、宗教に関連した貴族の襲撃事件は聞かないわ。そう心配しなくたって良いんじゃない?」
「彼らは黒魔術を使うといいます」
その瞬間、鮮烈なイメージがソフィーの頭を占めた。嵐のように強烈に、意識を攫っていく。黒魔術。アルビノ。義手を使う白い子ども。くり抜かれた舌、抉り取られた目、奪われた脳。呪術師。お守り、薬。健康を、富を、幸福を。
━━アルビノ狩り。
「お嬢様?」
呼ぶ声で我に返る。瞬きして何か言おうとして、ふらついたソフィーは机に手をついた。支えようとするイザベラを制して首を横に振る。こうも鮮明に前世を思い出したのは久しぶりだ。
「少し待ってくれるかな」
記憶がまた沈みゆく前に、ソフィーは思い出した単語を次々にノートの端へ走り書きした。イザベラに読まれぬように、日本語で。懐かしき前世のことは、全て記しておきたかった。たとえどんなに惨いことでも。
「待たせてごめんなさい。黒魔術って本当? 法で禁じられているし、故意に証言しなかったと判明しただけで終身刑になるような大罪の筈よね?」
「お嬢様がお思いになっているほど、この世界は綺麗ではないのですよ」
濁しながらイザベラが肯定する。ソフィーは今更になって、自分がウォルポートに一度として足を踏み入れたことがないことに思い至った。旅行先に名が挙がるような地でもなければ、親しい貴族と縁のある地でもないのだ。数年前の流行病で領民が多く死んだ地の一つという印象が最も強いような地だ。
ウォルポートに一体何があるのだろう。




