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三白眼の男

 自宅へと向かう馬車の中から、ソフィーは窓の外を眺めた。飛ぶように景色が過ぎていく。時折、横断者のための歩道橋をくぐり抜けた。この世界の馬車は、あまりに速い。馬車との接触事故は高確率で誰かを無惨に殺す。


 馬車が速いのは魔法のかかった蹄鉄(ていてつ)を装着した馬のお陰である。特別製の蹄鉄は地面を蹴る反動を強めるだけでなく、馬たちの負担を最小限に抑え、その上馬たちの身体に蓄積する筈の疲労すら軽減する。だから馬たちは翔ぶように駆けることができる。水分補給以外で休むことを必要としないほどに。それだけに件の蹄鉄は高級品だし、かといって転移魔法を依頼するとなると金がかかる。


 ソフィーは平民のことを考えた。乗合馬車か徒歩が主な移動手段らしいと聞くと、魔力アレルギーという悩みは少し小さく思われる。


「ソフィーに失神の仕方を習わせておけば良かったですね」


 聞こえよがしにヒューバートが言った。上機嫌のオブライエン公爵を思い出し、ソフィーは更に冷たい窓硝子へと顔を寄せた。


 そうして帰路について暫く。突然の衝撃でソフィーは物思いから醒めた。


「ソフィー、痛いところはないかい?」

「ええ。ありがとう、お兄様」


 座席から飛んでいきかけたのを、ヒューバートが止めてくれていた。オルドリッチ伯爵家の三人は、傾いた馬車の中から外を窺った。


「ジョー! 何があった!」


 ヒューバートが御者に叫ぶ。


「ぬかるみに車輪が嵌まってしまったようです!」


 馬の(いなな)きが、打たれた鞭の強さを物語っている。だが馬車は少し揺れただけで動きそうにない。高速の馬車が嵌まることからかなり酷いぬかるみであることが予想された。


「お父様、降りた方が良さそうね」

「うん。少し手を貸してやる必要があるな。全く、ピアソンがいないときに限ってこれだ」


 ジェラードがぼやいた。


 降りる準備をし出した馬車の中に、ノックの音が響いた。ヒューバートがドア窓のカーテンを引く。すると、外に青年が立っていた。格好から見るに貴族らしい。隣の使用人が傘をさしているが、ブルネットの巻き毛がややしっとりしているように見えた。


「大丈夫ですか?」


 はっきりした発音で尋ねながら、茶色の三白眼がオルドリッチ伯爵家の三人を順繰りに見ていく。不意に薄い唇が笑った。張り詰めていた表情が僅かに和らぐ。


「オルドリッチ伯爵に、フロレンス卿。お久しぶりですね。お怪我がなさそうで良かった」


 青年がソフィーを見て付け加える。


「こんなところでお嬢様にお目にかかれるとは」

「ソアレン伯爵。まさかこんなところでお会いするとは……恥ずかしいところをお見せしてしまいましたね」


 貴族の中でも知人の一人だったらしい。ソフィーは内鍵に手をかけてジェラードを振り向いた。頷きを確認して開ける。


「道のぬかるみは仕方のないことです。お手伝いしましょう」


 励ますようにそう言うと、ソアレン伯爵がソフィーに手を伸べた。


「ご令嬢、お手をどうぞ」


 低い声が優しくソフィーに話しかけた。


 ソフィーは差し出された厚みのある掌に手を重ねた。馬車旅で手袋を外したらしい男の裸の手の上で、女の手の小さく細いのが際立ち、頼りなく華奢に見えた。手袋の薄い布地の向こうにも、男の素手の温かさがじわりと伝わる。


「ありがとうございます」


 ソフィーは品良く礼を言ったが、踏み出した足は濡れたステップの上で見事に滑った。バランスを崩して、ソフィーの体はあろうことか後ろへと(かし)いだ。体が仰向けに馬車内へ倒れていく。


 突然、ソフィーは重ねた手を痛いほど強く引かれて馬車の外へと飛び出した。背中を押し返されたと錯覚するほど強い力だった。思わず目を瞑るが、何かに受け止められた感触に安堵する。とはいえ何たる失態だろうか。


「すみません」


 咄嗟に謝罪が口をついて出る。置かれた状況に気が付いたのはその後だった。


「お、降ろしてくださって大丈夫ですわ」


 ソフィーはソアレン伯爵に抱き止められていた。上半身が密着していて、足は宙ぶらりん。全体重が相手にかかっている。羞恥に頬が熱くなった。


「か、閣下……?」

「いえ、迷ってしまって」


 ソアレン伯爵の茶色の目が、ソフィーを見た。


「このまま降ろせばドレスが泥で汚れてしまいます」

「どうせ汚れますわ。馬車を引き上げなくてはなりませんもの」


 一瞬、ソアレン伯爵が確かに吹き出しそうな顔をしたのをソフィーは目にした。


「せっかくお似合いなのに勿体ないですよ。……失礼します」


 一言断ると、ソアレン伯爵が少し屈んだ。腰にあった手が離れる。伯爵のしようとしていることを理解できていない内に、(もも)の下に手が回されソフィーの体は持ち上げられた。


 落ちる。一瞬感じた浮遊感への恐怖から、ソフィーは反射的にソアレン伯爵の首にしがみついた。上半身が更に密着する。


「落としたりしませんよ。ご令嬢」


 笑った声で我に返る。微笑んでいる伯爵の顔が、とても近いところにあった。慌てて身を離す。混乱しているにも関わらず、ソフィーは、ソアレン伯爵の顔が端正なことに気が付いた。無駄なものの削ぎ落とされた、冷ややかに整った顔をしている。


「驚かせてしまいすみません」


 ソアレン伯爵がソフィーを抱え直す。その拍子に、微かに甘いような心地良い香りがした。香水というにはあまりに微かな香りである。


「我が家の馬車までお送りしますので、どうか身を預けて下さい」

「閣下を巻き込んでおいてただ見ているだけなんてできませんわ」

「その僕の頼みです」


 少し強引ではないかと思いながらも、不思議とソフィーは不快でなかった。あまりにソアレン伯爵が当たり前の顔をしているので、却って可笑しくなってきたのかもしれない。自分が笑ってしまっているのが分かった。ジェラードも何も言わないし、構わないだろう。ヒューバートからは、敢えて視線を外した。


「ではお願いいたします」


 ソアレン伯爵の腕に抱かれ、ソフィーは後ろに停められている伯爵の馬車へと向かった。(もも)裏や背に感じる手があたたかく、安定感がある。女性一人を抱き上げているのに伯爵の姿勢は少しも崩れていなかった。痩身(そうしん)に見えたが、ソアレン伯爵は鍛えているらしい。


「突然馬車が止まって驚かれたでしょう。お怪我はされませんでしたか?」

「幸い怪我はございません。お気遣いありがとうございます」


 ソフィーはソアレン伯爵の馬車のステップにそっと降ろされた。またも一瞬バランスを崩しかけるも、優しく手を取られ支えられる。ソフィーの頬は再び羞恥に染まった。


「ご令嬢」


 礼を伝えるより早く呼びかけられ、ソフィーは伯爵を見上げた。怜悧に整った顔は、今度は少し遠くにあった。


「名乗るのを失念していました。お恥ずかしい」


 はにかみを見せると、ソアレン伯爵が続けて名乗った。紹介し損ねたジェラードを責めない姿勢にソフィーは好感を持った。


「ソアレン伯セオドア・キンバリーです。ご令嬢の名前をお伺いしても?」

「ソフィー・フロレンスと申します、ソアレン伯爵。ご親切にありがとうございます」

「お礼を言っていただくにはにはまだ早いかと」


 手の甲に口付けると、伯爵はソフィーに馬車に入るよう促した。


「どうかあたたかくしてお待ちください。中の物は好きに使ってくださって構いませんから。では」


 踵を返してオルドリッチの馬車の方へ向かう後ろ姿は、長身痩躯で均整がとれていた。


 ソフィーはまず馬車内をルーペで確認し、魔法がかけられていないのに安堵した。座席にかける。安全な馬車から、雨の中で馬車をぬかるみから出そうと奮戦する男たちを見つめた。貴族三人と両家の従者・護衛らが協力している。魔法士とはいわずとも、優れた魔法使いがいたなら、と考えずにはいられなかった。しかしソアレン伯爵家でも、今日は魔法士を連れて来なかったようである。


 ソフィーは次にソアレン伯爵の馬車の内部を眺めた。居心地の良さを第一に考えられているのが分かる内装である。布張りの座席やクッションは勿論のこと、できる限り金属を使用していないのが良かった。芯材はさて置き、金に塗られた物が馬車の中にあると、光を反射した時に眩しいためである。


「せーので押しましょう!」


 男性たちの声を聞きながら視線を落とすと、自分の手袋をはめた手が視界に入った。確かに、あの場にいたところで邪魔だったろう。ほのかに苦い笑みが浮かんだ。ドレスの淡い青の布地を眺める。オブライエン公爵とソアレン伯爵に褒められたこのドレスは、ソフィーとしても気に入っているのだ。しかし、この長い裾が車輪に巻き込まれて大惨事になった可能性は高い。


 ややあって、オルドリッチ伯爵家の馬車は無事にぬかるみを脱した。


「お待たせしました、フロレンス嬢」


 声はソアレン伯爵だったが、開いた馬車のドアの前に待ち受けていたのは兄のヒューバートだった。伯爵はヒューバートの隣で微笑している。二人とも髪こそ乱れているが、服はこざっぱりと乾いていた。汚れどころか、染み一つない。


「ありがとうございました、ソアレン伯爵」

「ソアレン伯爵はご親切にも、魔法で全員の服を清めて乾かしてくれたんだ」


 ソフィーが聞くより前にヒューバートが説明した。ソアレンがにっこりと笑う。


「ごく簡単な生活魔法しか使えませんが、お役に立てて何よりです」

「それは……重ね重ねありがとうございます」


 ソフィーは兄の手を取って馬車を出た。だが、最後のステップを降りようとした所でヒューバートに止められる。


「折角ソアレン伯爵が守ったドレスを汚すのかい?」

「まさか本気なの?」

「見くびられては困るよ」


 譲る様子のない兄を前に、ソフィーは諦めた。ヒューバートの首に腕を回す。どちらかというと華奢な部類の兄なので不安があったが、しっかりと抱き上げられて安堵した。


「フロレンス嬢」


 呼びかけられて振り向くと、ソアレン伯爵がこちらを見ていた。


「どうかお気を付けて」

「ありがとうございます。ソアレン伯爵も、どうかお気を付けて」

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