第8話 その縄は捨てるな
王都の西門を出たのは、それから二日後だった。
城壁を離れると石畳はやがて土の道へ変わり、朝露を抱いた草が靴の側面を濡らしていく。街の煤と油の匂いは薄れ、代わりに湿った土や若い葉、遠くで流れる川の冷たい匂いが風へ混じった。
ユリウスは何度も鞄の位置を直していた。
重い。
明らかに入れすぎた。
「半分置いてくればよかっただろ」
前を歩くセラが振り返る。
「全部必要かもしれないので」
「使うかもしれない釘を二十本も?」
「同じ釘じゃないです」
「私には同じに見える」
「錆び方が違います」
「もっと悪い」
後ろを歩くリシェルが、手元の帳面から顔を上げた。
「昨日、重量を測った時点で十二キロありました」
「測ったんですか?」
「荷物が歩行速度へ与える影響を記録するためです」
「俺まで実験対象になってません?」
「かなり前からです」
セラが笑った。
三人が向かっているのは、王都西方の渓谷にある古い吊り橋だった。
正確には、吊り橋だったもの。
新しい石橋が数年前に完成し、古橋は撤去予定になっている。
何十年も谷風に揺られ、人と荷車の重みを受け続けた縄や金具が残っていると聞いて、ユリウスが食いついた。
リシェルは比較資料になると言い、セラは護衛が必要だと言った。
誰が誰を説得したのか、もうよく分からない。
*
昼前、谷へ着いた。
山肌の間を細い川が走り、低いところには白い水煙が立っている。日向は暖かいのに、谷底から吹き上がる風には指先を冷やすほどの冷気があり、苔と濡れた岩の匂いを運んできた。
古橋は新しい石橋から少し離れた場所に残っていた。
板は半分ほど外され、太い縄だけが対岸へ垂れている。
「これ全部、昔は人を支えてたのか」
セラが縄を掴む。
腕ほどの太さがある。
獣毛と植物繊維を撚り合わせ、その上へ樹脂を染み込ませた古い橋縄だった。端は石柱へ巻きつけられ、長年締め付けられた部分だけが平たく潰れている。
ユリウスの目が止まった。
「いいな」
「縄に言う言葉じゃないだろ」
「ここ見てください」
「何を」
「こっち側だけ毛羽立ってる」
橋が風に煽られた時、同じ方向へ擦れ続けたのだろう。
縄の裏側は比較的滑らかだ。
何十年。
荷車が渡るたびに引かれ、人が歩くたびに沈み、谷風が吹くたびに揺れた。
「少し切ります」
撤去業者から許可は取ってある。
刃を入れようとした時だった。
「そこじゃない」
低い声が背後からした。
三人が振り返る。
いつの間にいたのか分からなかった。
灰色の毛。
狼に似た尖った耳。
人より少し長い顎と、琥珀色の目。
背には短弓を背負い、腰には細身の刃と革袋がいくつも下がっている。深緑の外套は森の色へ馴染み、足元の柔らかな革靴には泥が乾いた跡が何層も残っていた。
獣人の男だった。
セラの手が大剣の柄へ近づく。
男はそれを見たが、気にした様子はない。
「切るなら、二腕ほど上だ」
ユリウスが縄を見る。
「どうしてです?」
「そこは交換されてる」
「いつ?」
「十年くらい前」
「分かるんですか」
男が近づく。
指で縄の表面をなぞった。
「樹脂の色が違う。撚りも新しい。向こうは三本を右へ締めてるが、ここだけ左だ」
ユリウスも顔を寄せる。
確かに違う。
言われなければ気づかなかった。
「こっちなら?」
少し上を示す。
男が頷いた。
「古い」
「どれくらい」
「橋ができた頃から残ってるなら、五十年はある」
「詳しいですね」
「何度か渡った」
短い。
セラが聞いた。
「お前、何者だ?」
男はしばらく三人を見る。
「ガロ・フェイン」
それだけだった。
「いや、名前じゃなくて」
「名前を聞かれたのかと思った」
セラが一度口を閉じる。
ユリウスは笑いそうになったが、今は縄の方が気になった。
教えられた位置を少しだけ切り取る。
掌へ乗せる。
魔力を通した。
縄がきしんだ。
実際に動いたわけではない。
それでも手の中へ、引かれるような感覚が返ってくる。
一方向。
強く。
ほんの一瞬。
「これだ」
ユリウスの声が漏れた。
リシェルがすぐ近くへ来る。
「反応?」
「あります。かなり強い」
ガロが縄を見る。
「当たり前だろ」
三人が彼を見た。
「当たり前?」
ガロは対岸へ伸びる縄を顎で示す。
「何十年も人を落とさないよう、同じ向きに引かれ続けた縄だ。何も残らない方がおかしい」
ユリウスの指が止まった。
その言葉は、自分たちが数日かけて近づいてきた考えを、別の場所からあっさり掴んでいた。
「残るって、何が?」
「知らん」
あっさり返ってくる。
「でも、長く土地にいた物は、その土地みたいになる。俺の村じゃそう言う」
「魔法の話ですか?」
リシェルが聞く。
「違う。道具の話だ」
ガロは橋板の残骸を蹴った。
「森の斧は森の匂いがする。川の罠は水の癖を覚える。雪山の杭は、乾いた場所へ持っていくと割れやすい。それだけだ」
理屈ではない。
けれど、何十年も道具と土地を見てきた人間の言葉だった。
ユリウスは縄へもう一度触れる。
橋は古い。
縄も古い。
だが価値があるのは年数ではない。
引かれた。
揺れた。
支えた。
繰り返した。
「これ、持って帰ろう」
ユリウスが言う。
ガロが眉を動かした。
「全部か?」
「できれば」
「やめろ」
「何でです?」
「重い」
セラが吹き出した。
「言ってやれ、もっと」
「少しで十分だ。必要な場所を選べ」
ガロは橋縄の一部を指した。
谷側へ張り出していた区間。
「そこは風を受けてる。荷重だけなら石柱側。揺れが欲しいなら真ん中だ」
ユリウスはしばらく黙った。
欲しい現象で、取る場所が違う。
材料そのものではなく。
その材料が、どこで何をされてきたか。
同じ一本の縄の中ですら違う。
鞄から帳面を出す。
リシェルも同時に紙を出した。
セラが二人を見てため息をつく。
「始まった」
ガロだけが少し不思議そうな顔をした。
*
帰り道、ガロも一緒だった。
王都へ用事があるらしい。
会話は多くない。
けれど、三人が気づかない物を拾う。
沢沿いの石。
折れた枝。
古い獣罠の金具。
最後には、乾いて白くなった何かを拾った。
ユリウスが見る。
「それ、何です?」
「糞のついた石」
セラが二歩離れた。
「捨てろ」
「古い。獣道の境にずっとあった」
「捨てろ」
「匂いはもうない」
「問題はそこじゃない」
ガロは革袋へ入れた。
ユリウスは少し考えた。
「後で見せてもらっていいですか」
「お前もか!」
セラの声が谷に響いた。
リシェルは黙って記録紙へ何か書いている。
「何を書いたんです?」
「採取者が二人になった、と」
「俺まであれと同じ扱いですか」
「行動だけ見れば」
否定できなかった。




