第7話 式にない魔法
翌朝、ユリウスは旧搬送庫へ着く前に呼び止められた。
「今日はそっちじゃありません」
振り返ると、リシェルが石畳の向こうに立っていた。
朝の街には夜露の冷たさがまだ残り、パン屋から流れてくる焼けた小麦の匂いと、通りへ水を撒いたあとの湿った石の匂いが混ざっている。建物の隙間から差す光は低く、彼女の濃紺の外套の縁だけを細く照らしていた。
「どこへ?」
「王立魔術院の保管庫です」
「俺が入っていい場所なんですか」
「よくありません」
ユリウスは足を止めた。
「帰ります」
「許可は取りました」
「先に言ってください」
「あなたが先に歩き出すので」
最近、同じようなことを言われている気がする。
リシェルは気にした様子もなく歩き始めた。
その後ろを追いながら、ユリウスは肩の鞄を持ち直す。中では昨日の滑車軸と車輪金具がぶつかり、歩くたびに小さく鳴った。
「何を見るんです?」
「事故品です。あなたの仮説が正しいなら、比較対象が足りません」
「古い物なら回収所にもありますよ」
「古いだけでは足りないと言ったのはあなたでしょう」
そうだった。
言われると少し嬉しい。
自分でもまだ確信のない考えを、彼女は仮説として扱っている。
ただの思いつきではなく、確かめる価値のあるものとして。
*
王立魔術院は、街の北側にある。
高い塔と尖った屋根を想像していたユリウスは、正門の前で少しだけ拍子抜けした。
大きいのは間違いない。
ただし華美ではなかった。
灰白色の石を積んだ四階建ての建物が中庭を囲み、その間を渡り廊下が繋いでいる。窓は大きく、あちこちから紙束を抱えた研究員や、木箱を運ぶ技師が出入りしていた。
魔法を学ぶ学校というより、巨大な工房と役所を一緒にしたような場所だった。
廊下を歩きながらユリウスが周囲を見ていると、リシェルが言った。
「珍しいですか」
「もっとこう、魔法使いが浮いて移動してるのかと」
「歩いた方が安いので」
「現実的ですね」
「研究費には限りがあります」
妙なところで夢がない。
地下へ下りる階段の先に保管庫があった。
扉を開けた瞬間、乾いた金属と古紙、それに石灰の匂いが鼻へ入る。
棚には事故で回収された術具や部品が番号付きの箱に収められている。焦げた杖頭、割れた術式板、溶けた導線、砕けた魔法灯のガラス。
ユリウスの足が止まった。
「ここ、いいですね」
「事故品保管庫を見て最初に出る感想ではありません」
「捨てないんですか」
「原因調査が終わるまでは」
「終わったら?」
「重要性がなければ廃棄です」
ユリウスが棚を見る目を、リシェルが横から見た。
「持ち帰れませんよ」
「まだ何も言ってません」
「顔に書いてあります」
最初に取り出したのは、古い魔法灯だった。
手のひら二つ分ほどの乳白色のガラス球を金属枠で包み、底部の術式へ魔力を流すと内部が一定の明るさで光る。油も芯も要らないため、王都では家屋や街路の灯りとして珍しくない。
事故品はガラスの半分が割れていた。
「二十八年間、北区の地下通路で使われていました」
リシェルが記録を読む。
「点灯回数は?」
「常設なので毎晩です。夕刻に点灯、明け方に消灯」
ユリウスは割れた縁へ触れないよう、金属枠を持った。
魔力をほんの少し流す。
何も起きない。
次に、ガラス片。
こちらも反応はない。
「駄目ですか」
「今は」
「今は?」
「組み合わせてないので」
棚の横へ小さな石台を借りた。
比較用に同型の新しい魔法灯も置く。
二つへ同じように魔力を通す。
新品は術式に反応して普通に灯った。
事故品は壊れているから灯らない。
それ自体は当然だった。
ただ、ユリウスが気になっているのは術式ではない。
古いガラス。
毎晩、暗い地下で光を受け続けた。
光そのものを作っていたわけではない。中心で生まれた光を、外へ通し続けただけだ。
「これ、残しておいてもいいですか」
「持ち帰りは」
「分かってます。保管対象から外さないでほしいんです」
リシェルがガラス片を見る。
「反応はありませんでした」
「だからです」
「意味が分かりません」
「俺にもまだ」
リシェルの目が細くなった。
「その言い方、便利ですね」
「本当に分からないので」
ユリウスはガラス片を光へ透かした。
表面には細かな傷が無数に走っている。
ただ古いだけかもしれない。
何の役にも立たないかもしれない。
それでも捨てるのは違う気がした。
何十年も、同じ場所で同じことをしてきた物だ。
まだ何と繋がるか分からないだけで。
リシェルは記録紙へ何かを書いた。
「廃棄保留にしておきます」
「ありがとうございます」
「その代わり、理由が分かったら報告してください」
「分からなかったら?」
「永久保管にはしません」
「厳しい」
「倉庫は有限です」
*
午後からは、魔術院の実験室を借りた。
石造りの壁に囲まれた四角い部屋で、床には事故防止用の溝が刻まれている。窓を開けると中庭から乾いた風が入り、紙と金属ばかりだった室内へ木々の匂いを運んできた。
机の上には、ユリウスが使った三種類の古材。
パン窯石。
井戸鎖。
冷蔵倉庫の金具。
その隣にはリシェルが用意した定式術式の記録紙がある。
「もう一度やってください」
ユリウスは眉を上げる。
「ここで?」
「安全設備があります」
「失敗した時に?」
「壁一枚なら交換できます」
「怖いこと言いますね」
実験を始めた。
一度目。
失敗。
二度目。
石だけが熱を持つ。
三度目。
金具の向きを逆にする。
今度は反応した。
部屋の空気から熱が抜け、窯石へ集まっていく。
リシェルは術具を握ったまま、一歩も動かなかった。
青い測定光が材料の上を走る。
「魔力流入量、一定。術式反応なし」
「何度測っても?」
「はい」
「本当に術式じゃない?」
リシェルは返事をせず、材料の間へ視線を落とした。
鎖片がわずかに震えている。
熱が移る。
けれど、術式はない。
魔法陣もない。
詠唱もない。
少量の魔力を最初へ通しただけだ。
リシェルは何枚かの記録を見返した。
眉間へ薄く皺が寄る。
「これは、式ではありません」
声が小さかった。
ユリウスは窯石へ伸ばしていた手を止める。
「どういう意味です?」
「少なくとも、私たちが定式魔法で言う術式ではない。命令を書いて現象を起こしているのではなく、材料同士の反応そのものを繋いでいるように見えます」
「それって」
「まだ断定しません」
先回りされた。
リシェルは記録へ線を引く。
それから、珍しく長く黙った。
ユリウスには、その沈黙の方が気になった。
定式魔法を疑わない人間だと思っていた。
正しく書けば正しく動く。
再現できるからこそ学問になる。
彼女は何度もそう話している。
その足元に、今までの式では説明できないものが置かれている。
「嫌ですか」
思わず聞いた。
リシェルが顔を上げる。
「何がです」
「説明できない魔法」
少し考えた。
「嫌というより、腹が立ちます」
「そっちなんだ」
「分からないまま存在していることにです」
そう言ってから彼女は、窯石と鎖片を見た。
「ですが」
声の硬さが少しだけ抜けた。
「分からないなら、調べればいい」
ユリウスの口元が動いた。
「それ、俺が言いそうなやつですね」
「あなたより正確に言いました」
「そこ張り合います?」
白い粉が、石台の上へ落ち始める。
二人とも黙って見た。
その日、最初の魔法にも名前がついた。
熱を生むのではなく、片方から片方へ渡す。
リシェルが《熱移送》と書き、セラが後から見て「堅い」と却下した結果、
《熱渡し(ヒートシフト)》。
それが仮称になった。
最初から存在していた魔法ではない。
三人が名前をつけた。
その事実だけが、妙に手の中へ残った。




