第6話 使えるなら、使え
灰角猪は死んでいなかった。
気絶していただけで、街の衛兵が到着する頃には低く唸り始めていた。再び暴れないよう四肢へ拘束具を掛け、壊れた運搬檻の代わりに厚い木柵へ移される。
秋に近い昼の日差しはまだ暖かかったが、騒ぎの後の街道には砕けた果実の甘い匂いと獣臭が混ざり、鼻の奥へ重く残っていた。倒れた荷車の影だけが妙に冷たく、その中で助け出された男が水を飲んでいる。
ユリウスは離れた石段に腰を下ろしていた。
掌の上には三つの材料。
完全には崩れていない。
ただ、昨日より明らかに色が薄い。
「また使えると思うか?」
頭上から声がした。
見上げる。
さっきの女だった。
近くで見ると二十代後半くらいだろうか。
赤茶の髪を後ろで雑にまとめ、肩当てと胸当てには細かな傷がいくつも走っている。背負った大剣はユリウスなら両手でも持ちたくない大きさで、左腕の盾には新しい傷より古い補修痕の方が多かった。
「どうでしょう」
「そこは分からないんだな」
「分かってることの方が少ないので」
「威張るところか?」
女が隣へ座った。
鎧が石へ当たり、小さく鳴る。
「セラ・ヴァルグレン」
「ユリウス・レインです」
「知ってる」
「なんで」
「そこの魔術師が三回呼んでた」
見ると、少し離れた場所でリシェルが衛兵へ事情を説明している。
書類まで出していた。
王立魔術院は魔法を教えるだけの学校ではないらしい。新しい術式の認定、事故の検証、都市設備へ採用する定式魔法の基準づくりまで担うため、魔法絡みの事故となると衛兵より細かい記録を求められる。
リシェルがこちらに気づいた。
目が合う。
手招きされた。
「怒られるぞ」
セラが言う。
「分かります?」
「分かる顔してる」
二人で立ち上がる。
リシェルのところへ行くと、最初の言葉は予想通りだった。
「なぜ実験途中の現象を、人のいる街道で使ったんです?」
「使わなかったら、あの人が」
「結果は分かっています。私が聞いているのは、範囲も持続時間も副作用も分からない状態で使った判断についてです」
ユリウスは口を閉じた。
言われてみれば、その通りだった。
灰角猪だけが滑る保証はなかった。
倒れていた男の足元まで効果が広がっていたかもしれない。
リシェル自身も巻き込んだ可能性がある。
「すみません」
「謝罪が欲しいわけではありません」
「じゃあ何を」
「次に同じ状況になった時、何を確認してから使うかを考えてほしいんです」
ユリウスは手元を見る。
材料の白さが少し増した気がした。
その横からセラが口を挟む。
「使わなきゃ一人潰れてたぞ」
リシェルが彼女を見る。
「だからといって、何でも許されるわけではありません」
「何でもとは言ってない。あの場で他に手があったかって話だ」
「危険性が未知です」
「灰角猪の角は既知だった」
「そういう比較では」
「私はそういう比較をする」
空気が少し硬くなる。
ユリウスは二人の間で視線を動かした。
セラは腕を組んだ。
「有限なんだろ、その材料」
「たぶん」
「またそれか」
「でも、使えば色が薄くなる。最後は白い粉になる」
「なら使いどころを選ぶしかない」
「それが分からないから困ってるんです」
「必要な時でいい」
あまりに簡単に言うので、ユリウスは顔を上げた。
セラの視線は、掌の材料ではなく向こうの壊れた荷車へ向いている。
「残しておいて、あとで『使えば助かった』ってなる方が私は嫌だ」
声は軽かった。
けれど盾を持つ左手だけが、いつの間にか補修跡へ触れていた。
すぐに離れる。
「もちろん、毎回適当に使えって意味じゃない。そこの堅物が言うことも正しい」
「誰が堅物ですか」
「自覚ないのか」
「ありません」
「そういうところだぞ」
リシェルの眉間に皺が寄る。
ユリウスは少しだけ口元を緩めた。
さっきまで胸の中で重くなっていたものが、完全ではないにせよ少し動く。
使う。
調べる。
残す。
どれか一つだけ選べば済む話ではないらしい。
*
午後、三人は旧搬送庫へ戻った。
セラもついてきた。
「何で来るんです?」
ユリウスが聞く。
「暇だから」
「仕事は」
「今日の護衛依頼は、あの猪が荷車をひっくり返した時点で終わった」
「それ、失敗では?」
「依頼人は逃がしてない」
「猪は逃げましたよね」
「細かいな」
リシェルが横から言う。
「細かくありません。護衛契約上は重要です」
「似たのが増えた」
セラがユリウスへ言った。
「一緒にしないでください」
倉庫へ入る。
午前中に転んだ白墨の跡がそのまま残っている。
セラが床を見た。
「ここか」
「踏まない方が」
言い終わる前に、セラは靴先で床を確かめた。
もう滑らない。
「何もないぞ」
「切れてます」
「消えるのか」
「しばらくすると」
「便利だな」
リシェルが眉を上げる。
「危険性を先に考えてください」
「戦場じゃ、敵の足元だけ滑らせられるなら十分便利だ」
「敵だけという保証が」
「だから練習するんだろ」
セラは当然のように言った。
ユリウスが材料を並べる。
「じゃあ試します?」
「やる」
返事が早い。
「まだ危ないですよ」
「お前が使う範囲の外に立てばいい」
「範囲が」
「分からない」
三人の声が重なった。
少し静かになった。
セラが笑う。
「本当に何も分かってないんだな」
「昨日よりは少し分かってます」
「何が」
ユリウスは材料を指す。
「こいつらは、古いから反応するんじゃない」
滑車軸。
車輪金具。
杼の金具。
「何をされてきたかが関係してる気がします」
セラが顔を寄せる。
「何をされてきた?」
「この軸は、何十年も同じところで回った。こっちは荷車の車輪を支えてた。これは織機の中をずっと往復してた」
「だから滑る?」
「まだそこまでは」
リシェルが紙を開く。
「ですが、同じ年代、同じ材質でも使用履歴が違うと反応差があります。時間経過より、反復された物理現象の方が重要だと考える方が自然です」
「簡単に言って」
セラが言った。
リシェルが一度黙る。
ユリウスを見る。
「あなたが」
「俺ですか」
「こういう時のために、説明できるようになってください」
ユリウスは少し考えた。
棚の上に新品の滑車がある。
その隣に古い滑車。
両方を指した。
「同じ鉄でも、片方はただ鉄だった。片方は何十年も回り続けた鉄だった。その違いが、魔法になってるのかもしれない」
セラは二つを見比べた。
「それなら分かる」
リシェルが無言で何かを書いた。
「何です」
「説明例として記録しました」
「勝手に」
「共有可能にするためです」
「まだ何も確定してないですよ」
「だから仮説として残します」
セラが二人を見て、鼻で笑った。
「お前ら、相性いいな」
「どこが」
今度も声が重なった。
*
実験は日が傾くまで続いた。
セラが参加したことで、やり方が少し変わった。
それまでは「何が起きるか」を見るだけだった。
セラは違う。
「ここだけ滑らせられるか」
「幅を半分にできないか」
「途中で止められるか」
「斜面だったらどうなる」
次々に使い方を聞く。
ユリウスには答えられない。
だから試す。
材料の間隔を変える。
向きを変える。
量を減らす。
失敗する。
たまに成功する。
石床の一部だけが滑った時、セラはわざと走り込んだ。
足を取られ、見事に転んだ。
鎧が派手な音を立てる。
ユリウスとリシェルが固まった。
セラは仰向けのまま天井を見た。
「今のは使える」
「まず怪我を確認してください!」
リシェルが駆け寄る。
「平気だ」
「頭を打っている可能性が」
「打ってない」
起き上がったセラの肘に埃がついている。
ユリウスは笑いを堪えた。
見つかった。
「笑ったか?」
「笑ってません」
「見てたぞ」
「成果が出たなと」
「顔が成果を喜ぶ顔じゃなかった」
リシェルが二人を無視して材料を見る。
「名称が必要ですね」
「もう?」
ユリウスが聞く。
「記録上、毎回『滑る現象』と書くのは非効率です」
「じゃあ、滑る魔法」
「却下します」
セラが肩の埃を払いながら言う。
「滑奪でいいだろ」
二人が見る。
「滑るのを奪うんじゃなくて、滑らない方を奪ってるんだろ?」
ユリウスは石床を見る。
言葉としては少し乱暴だ。
でも、何が起きたかは分かる。
リシェルが紙へ書く。
《滑奪》
その横へ少し考えてから、小さな共通語表記を添えた。
《スリップ》
「これで仮称とします」
「採用なのか」
セラが意外そうな顔をした。
「短く、現象が分かります」
「私の方が命名上手いな」
「一例だけで結論を出さないでください」
ユリウスは紙を見た。
初めて、自分が起こした現象に名前がついた。
《滑奪》。
昨日までなら、ただの失敗だったかもしれない。
今日、人を助けた。
名前までついた。
胸の内側に落ち着かないものが残る。
嬉しいと言ってしまうには、ハルドの包帯が頭に浮かんだ。
それでも指先が、もう次の材料を探している。
セラがその様子を見た。
「ところで」
「はい?」
「明日もやるのか」
「たぶん」
「見に来る」
「暇なんですか」
「さっきも聞いたぞ」
セラは大剣を肩へ担ぐ。
出口へ歩きかけて、足を止めた。
「護衛もいるだろ」
ユリウスとリシェルが顔を見合わせる。
「何の?」
「お前ら、これから古い物を探し回るんだろ?」
ユリウスは答えなかった。
そんな話をした覚えはない。
けれど、否定しようとした時、自分の鞄を見た。
昨日より増えた鉄片。
滑車軸。
古い車輪。
まだ試していない廃材。
事故の原因。
止まった定式魔法。
知らないものが、街の外まで続いている気がした。
セラが先に外へ出た。
夕方の光が倉庫の床を長く伸び、開いた扉の向こうから冷え始めた風が入ってくる。
リシェルが記録紙を閉じた。
「否定しないんですね」
「何をです?」
「探し回ることです」
ユリウスは少し考えてから、棚の古い滑車へ目を向けた。
「ここだけで、これだけ違うなら」
言葉を続ける前に、外からセラの声が飛んだ。
「おい。帰るなら早くしろ。腹減った」
リシェルがため息をついた。
ユリウスは材料を鞄へ戻す。
全部は入らない。
また増えた。
それでも捨てる気にはならなかった。
「分からないものを捨てたら」
リシェルが振り返る。
「何です?」
ユリウスは鞄の蓋を押し込みながら答えた。
「永遠に、分からないままでしょう」
留め具が、ようやく閉じた。
外へ出る。
セラが待っている。
リシェルも続く。
三人分の足音が、夕暮れの石畳へばらばらに重なった。




